写真について 沸騰篇 第八回

写真について 沸騰篇 第八回

核心的なことを書くと、どうしても文章が長くなる。
もう、疲れて、夜ご飯を作って、あまちゃんを見ながら食べて、FPSでもやって寝たい気分なのだが、話はまだ途中なのだから、続きはまた別日に、というわけにはいかないだろう、何せ、核心に触れているわけだから。

思えば、僕の仲の良い友人たちは、すべからず、写真を始めている。
そのうちの二人は、僕が写真を教えた。
ここで、別の女友達の話を少しするが、彼女は、一時期、現代詩フォーラムで詩を投稿していた。
そして、その詩は、僕の詩よりもウケがよく、僕は詩を書くのをやめようか、と悩む日々であったのだが、彼女の詩は、出来はともかく、彼女らしい、彼女の詩であり、彼女の写真も、彼女らしい、彼女の写真であった。

そこには、すでに、彼女が現れている。
だから、僕は、そのことで、褒めることはあっても、難しいこと(批評)を言った覚えはないし、述べる必要も感じていない。
友人は、僕が、褒めることしかしないから、素直に喜んで、たまに写真をメールで送ってくるのだが、僕は、ほとんど、微笑んでいる顔文字を返信するぐらいである。
友人は、詩人は廃業したが、写真をやりたい、写真展をやりたい、と願っているらしく、そのうち、またきちんと撮り始めるだろう。

友人の写真には、ここにいる、ということが写っている。
ここにいて、ここにある、ということが写真に内在している。
それが、あなたたちの音楽、及び、写真に足りない、あなたたちが望んでいることだろう、というぐらいのことは、僕は知っている。
男の友人の写真には、そのことが内在している。
だから、僕は、写真を毎日撮ることを勧めているのであって、何も考えて、悩む必要はない、なぜなら、あなたの写真には、すでに、あなたがここにいて、ここにあるからだ。
僕は、嘘を言っているわけではない。
写真なんて、めんどくさく考えなくても、押せば撮れるのである。

どうして、めんどうなことを考えなくてもいいのか、それは、すでに、目の前に、現世界=舞台=現実=存在があるからだ。
世界があって、あなたがいる。
あなたがいて、世界がある。
だから、悩む必要はないのである。

これは、演者=自己規定=自己同一性につながる話で、ようやく結論らしきものに近づいているのだが(長い……、僕はもう疲れたよ、パトラッシュ)、友人が音楽で躓いていることは、舞台全体を把握した上での演者=自分、という認識が欠けていることなのではないか、と僕には思える。
舞台全体の流れ、演出、スポットライトが分からなければ、どのように演じたらいいか(演奏したらいいのか)、わけワカメになるだろうから。
僕がそのことで悩まないのは、初めから、僕は、舞台の上に立つつもりがないからだ。
僕は、演者ではなく、舞台を組み立てる裏方なのではないか。
僕にとって、僕の音楽は、舞台があればいいのであって、そこに事物は、自ずと現れるもので、自ずと(つまり勝手に)現れていればいいのである。
舞台という空間さえ用意できれば、舞台上の事物は時間と共に、自ずと、現れるのではないか。

この間、一年ぶりに、スカイプで話して、驚いたのは、お喋り=自己主張をよくするようになったことである。
以前ならば、あー、とか、うー、とか、よくて、にゃー、とか言わなかったのだが(にゃー、は言っていないか)、これは、僕自身の変化もあったのかも知れない。
僕が、より、空間的な人間に、もしかしたら、なったのかも知れないな。
でも、これだけ喋るのならば、写真で躓くことはしばらくなさそうだな、とは思った。
男の友人と違って、女の友人の写真は、ちょいとややこしいのである。
どのようにややこしいのか、ここではまだ触れないでおくけど、ああ、ややこしやオフィリア遺文、なのであった。
僕が言えることは、やはり、ややこしいことは考えず、シャッターボタンを押せばいいんだ、ぐらいのことでしかない。
それで写真は撮れるのだから、それでオッケーなのだ。