覚書 15

覚書 15

昨日と今日の二日間、お休みである。

一週間ほど前から、デジタルアルバムの仕事が入ってきて、一件目の依頼が来た時点で、Amazonで中古デスクトップパソコンを注文したら、やはり、すぐに、二件目の依頼が来た。
パソコンが早く手元に届いて、問題がなければ、ギリギリ、納期が間に合いそうだな、と思い、納期が間に合わない可能性を考慮して、昨日、他の仕事を休みにしたのだが、パソコンがすぐに届いて、編集ソフトも問題なく使用出来て、さらに、作業効率が格段に良くなったので、予定よりも早くデジタルアルバムが仕上がり、一昨日来た三件目のデジタルアルバムを、昨日、三時間ほどで仕上げた。
中古デスクトップパソコンは、考えた末、二万円のDELLにした。
理由は、中古の液晶モニターが付属するからである。
それに、メモリーなどの性能が、買おうか考えていたVistaの一体型パソコンよりも良くて、メモリーが2GB、HDDが180GBある。
OSは、ウィンドウズ7の32BIT。
信じられないぐらい、早い。

今までずっと使っていたノートパソコンは、XPで、メモリーが256MB。
それに、フォトショップを稼働させていたのだから、本当に遅く、最近、さらに動きが遅くなっていた。
このノートパソコンでデジタルアルバムを一冊編集すると、だいたい七時間から八時間かかる。
新しく購入した中古のデスクトップパソコンだと、二時間から三時間で仕上げることが出来る。

デスクトップパソコンは、仕事用に考えていて、仕事でインターネットを使うので、900円ほどの無線LAN接続のUSBを購入した。
ネットは遅くなるけど、仕事に支障がなければ、それで構わない。

ノートパソコンは、動きが遅すぎるので、昨日、初期化した。
さて、手元に二台のパソコンがあって、ノートパソコンはいらないと言えばいらないのだが、ストックとして持っておきたいし、どうしたものか、と考えていた。
ノートパソコンは、音楽制作用として、それに必要なソフトをダウンロードすればいいかな、という結論になった。
あとは、念のために、フォトショップとフォントをダウンロードしておいて、デスクトップパソコンが使えなくなった時の備えとしておこうかな。

昨日は、休みではあったのだけど、一冊、デジタルアルバムを仕上げたので、休みとは言えないのかも知れない。
しかし、サクサクと動くパソコンでの作業は、苦痛ではなく、また、新しく手に入れたパソコンを弄れる口実のようなものにもなっているので、楽しく、仕事ではない感覚で、行えた。
台風がきているので、昨日は、溜まっていた洗濯物を洗濯した。
洗濯機を四回、使用した。

昨日は、本当に疲れて、グッタリしていた。
今日も、少し、頭痛がしていて、グッタリしているけど、体はまだ、昨日よりは重くはなさそうである。
結局、これは、気分を切り替えられるかという問題で、オンからオフにしないと、リラックスして休めないわけで、昨日はまだ、オンの状態だったのだろう。
今日の用事は、祖母のお見舞いと、スーパーでの買い物、リカバリーしたノートパソコンにソフトを入れていくぐらいなので、気分転換して、明日からに備えよう。

音楽は、相変わらず、小室哲哉さんが手掛けた曲をよく聞いている。
小室哲哉さんのボーカルに関して、賛否両論、どちらかと言えば、否の方が多いというイメージなのだが、面白いのは、小室哲哉さんの最近のソロアルバムのアマゾンでのレビューにおいて、従来のファンの何人から、小室哲哉さんの歌声がないのは物足りない、という内容が書き込まれていることであった。
当たり前といえば当たり前だが、小室哲哉さんのボーカルが好き、というファンはいる。
一般論で音楽を語っても仕方があるまい。

数日前、写真の基礎、というものとは何か、と考えていた。
今のデジカメならば、押せばキレイに撮れる。
従って、写真の基礎なるものは、だいたい、カメラの中の機械がやってくれる。
だから、撮影者は、自分の撮りたいものを、テーマ(主題)を、モチーフ(動機)を、追求していけばいいのだけど、ここで書きたいのは、そのような精神的な、思想的な、写真論ではなく、写真の基礎なるものとは何か、ということである。

そもそも、テーマやモチーフに基礎なるものがあるはずがない。
それは、自分という者達に共通する基礎なるものがあるのかどうか、ということに繋がるはずで、もし、それがあるとするならば、それは、基礎という言葉ではなく、人類における普遍性や、場所性、時代性などで語られるべきではないだろうか。
自分=人間の基礎があるとしても、僕がここでそれを書きたいとは思わない。
あまりにも壮大な話なので。

僕にとって、写真の基礎とは、写真の仕事における基礎でしかない。
従って、仕事でなければ、写真の基礎なるものは必要ない、と僕は考えている。
例えば、プリクラで必要なのは、写真の知識ではなく、レタッチの方法や、写真写りをよくする工夫である。
プリクラだとて、写真であることにはかわりはあるまい。

スマートフォンのカメラでもいいのである。
そして、スマートフォンのカメラで必要なのは、写真アプリであって、その扱いである。
つまり、直感的に扱えるように、時代は変化しているし、直感的に写真を撮り、加工すればいいのである。
直感に基礎なるものはあるのだろうか。
もしあるとするならば、それは、個人的な、個性につながるものなのではないだろうか。
今の時代の多様性なるものは、そういうものなのかも知れないし。

写真の基礎なるものが、仕事に直結するならば、それは、従事する仕事によって異なる。
それは、ただ、ソツなく写真を撮ればいい、というものではなく、仕事や職場のルールを踏まえ、クレームがこないように務めることを要求される。
とどのつまり、写真の基礎とは、クレームを回避する能力や習慣のことなのではないだろうか。

だから、というべきか、僕には音楽の基礎なるものはないし、僕自身はそれを必要だとも考えていない。
なぜなら、僕は、音楽のプロを目指していないし、音楽を仕事にしようとも思っていないからである。
僕は、自分のことをミュージシャンとか、音楽家などと、自称するつもりもないし。