覚書 12

覚書 12

さきほど、テレビ番組で、美輪明宏さんのライブを見ながら、夕食のカレーを食べた。
圧倒された。
涙が出そうになった、美輪明宏さんの歌に。

アトムさんの評価が気になって、Amazonで見てみたら、新品が千円ちょっとで、買おうかな、と思って、カートに入れた。
今月は、CDを買いまくっているので、もうちょっとしてから、アトムさんのファーストアルバムを買おうかな、と考えているのだが、Amazonでのレビューが三十以上あって、そのほとんどが、好意的な、高い評価だった。
アトムさんのアルバムを聴いたのは、今年の夏、友人がiPadに入れていて、一緒に聞いて、曲のあまりのよさにぶっ飛んだのだが、その時、友人は、ネットにおいて、アトムさんのアルバムへのリスナー達の評判がよくない、と言っていたのである。
へー、とその時は思ったのだが、今日、Amazonでレビューを見たら、21世紀を代表する名盤、だとか、LPの音質が半端ない、とか、レビューを書いている人達の愛や圧倒された感じが伝わってきた。
もちろん、アンチもいるだろう。
それは、どんな作品でも、どんな曲に対しても、ゼロというわけではない。
ただ、どうも、友人の音楽や曲に対しての情報が偏っているのではないか、という気がしている。
前回書いた、小室哲哉さんのことでもそうで、当然、アンチもいるだろう、確か、今年の春ぐらいに、初音ミクとのコラボレーションアルバムを小室さんが出す直前ぐらいに、ヤマハの社長か、関係者が、Twitterで、誤解を招くようなつぶやきをして、小室さんがヤマハの許可を得ずに初音ミクとのコラボレーションアルバムを制作している、というデマがかなり飛び交ったようなのだが、その時、やっぱり小室哲哉は仕事の筋を通さない、などの反応があったし、Twitterで直接的にバッシングもあったであろう。
この場合、元凶は、誤解を招きやすいつぶやきをしたヤマハの関係者であって、小室さんは当然のことながら、きちんとヤマハに話を通しているし、おかしなことはなかったはずである。
どうやら、アルバムの進行具合や販売日などの連絡が遅れていて、そのことの連絡がない、とヤマハの関係者はつぶやいたのであったが、それが、許可を得ずに、勝手に初音ミクを用いて新しいアルバムを作っている、と勘違いされたようだ。

正直、私は、他人の意見であまり左右されないと思うので、いいものはいいし、ピンとこないものはこない、それだけのことではあるだろう。
美輪明宏さんの歌は圧倒的だし、アトムさんの曲も圧倒的だった。
小室さんは間違いなく天才だと私は思っている。
globeは20世紀の(少なくても)日本国内において、実現可能な限りの最高の音源や音質で、実験的にも関わらず(挑戦的、というべきか)、ミリオンセラーを何度も出したユニットだと、私は捉えている。

自分達のユニットのことを前回書いたので、その続きのようなものを書いていくが、私は、音楽というものを狭い範囲で決めつけたくはない、と思い続けている。
それは、これはいい音楽、あれは悪い音楽、というのも含めて、あまり自分で決めつけたくはないし、何度もブログに書いているけど、私は音楽に関して、無知な人間なので、実際に聞いてみるしかない、特にテクノや電子音楽は無知なので、手に入る、入りやすいものから、とりあえず聞くしかない。
分かりやすく言えば、当たり前のことだが、美輪明宏さんのも、アトムさんのも、小室さんのも、「音楽」であることに変わりはない。
私の中で、そこに、優劣はない。
私にとっては、圧倒的な、という点で、「音楽」なのである。

「音楽」なんてものは、数多ある、この世界の事象と同様に。
その「音楽」を限定するのも、また、人であって、それは、この世界の事象全てを把握し、認識することが叶わないのと同義なのかも知れない。
ノリのいいもの、感じ入るもの、社会的メッセージが込められた反戦歌、実験的な音楽、クラシックミュージック、現代的な音楽、ロック、フォーク、シャンソン民族音楽、テクノ、いろいろなジャンルはあり、多くの人々は、ポップスを音楽だと思っているようだが、雅楽だとて音楽なのである。
そこまで音楽の定義を拡大し、拡張させた時、音楽と音楽ではないものの境界線は、私の中でかなり曖昧になる。
例えば、自動車のモーター音、風鈴が風に吹かれて奏でる音、鈴虫の羽音、蛇口から流れる水がシンクに当たる音、などが音楽ではないと誰が言い切れるだろうか?
それは、音楽ではない、そうかも知れない、ならば、それらは、音楽になる前の音、とは言えるだろう。
世界には、音で溢れている。
それらの数多ある音の中に、音楽はあるのであって、私にとっては、音楽は、特別な何かではない。
それを、特別な何かにしているのも、また、人なのである。

私は、人ではなく、音に寄り添いたい、という気持ちがずっとある。
その中で、人が聞いたら不快になりそうな音をあまり使わないように心掛けているだけのことなのかも知れない。
しかし、それも、「音」からすれば、ただのエゴでしかないだろう。
そう、音楽なんてものは、人間のエゴだ。

話が脱線しているが、ユニットに関して、私個人は、ジャンルにこだわるつもりはないので、やれそうなこと、興味があることならば、構わない、と考えている。
ただ、手抜きはしたくない。
ウケを狙って妥協もしたくはない。
何故なら、私は、世界中の人々を相手にしているつもりで、音楽を作っていて、その世界中の人々というものは、本当に世界中の人々なので、日本人に限定していないし、自分のみじかな人だけではない。
世界は広いだろう。
今、日本でウケているもの、流行りを追いかけるつもりはないし、一部の人達の意見に左右される由縁もない。
アンチはアンチでいい。
ピンとこない人がいても、仕方が無い。
ただ、私は、「音楽」をやりたいだけなのだ。

私は、私のあのポートフォリオと同様に、音楽を作ることが出来る、と断言する。
それを、意図的に、していないだけのことであって、やろうと思えばやれる。
それは、内的な、個的なものになるだろうから、音楽ではしていないだけのことではある。
私は、音楽で、内的な、個的なものをテーマにはしていない。
もっと普遍的な、人間のエゴも含めた、「この世」のことを扱っているつもりである。

アンビエントミュージックというのは、「この世」ということじゃないかな。

ユニットに関していえば、一緒に「音楽」をやる、というのが大前提で、じゃあ、どのような音楽をやるのか、というのを、最初に決める必要を感じてはいない。
ただ、ポーズとか、スタイリッシュとか、そういうのはウンザリだし、音楽の本質からはかなりズレたところにある、というのは感じている。
ユニットを組んでいる友人の知人などの評価は、私にとってはそれほど重要なことではないし、そんなところに気を使って、彼らの気に入りそうな音楽を、やるつもりは毛頭ない。
単純に、私はそのことに興味がないので。
単純に、自分たちがやりたい「音楽」をやればいいだけではないのか。

じゃあ、自分達はどのような「音楽」をやりたいのか、ということが、私にとっては重要なことであって、心底、これがやりたい、というのであれば、ウケが悪いものをやっても構わないと考えている。
クオリティはともかく、ウケのいいものを本当に目指すならば、私のことは棚上げにするけれど、友人のギターのセンスのかなりの部分を変えていかなければならないだろう、と私は感じている。
わざわざそういうことで苦労するならば、自分がやりたいことを素直にやってみた方がいいだろう、と私は考えている。

そもそも、あのファーストアルバムは、友人の「オーストラリア」というギターソロの曲を基軸に置いている。
サウンドクラウドでこの曲を聞いた時、あ、これなら一緒にやれそうだな、と思ったから、ユニットを組んだのである。
では、「オーストラリア」という曲が、ノリのいい曲か、と言えば、そうではないし、ポップか、と言えば、そうでもないだろう。
だから、というべきか、私は、自分のソロ曲で、明るい音色を多用したし、ウケの悪くなさそうな感じ(デイのようなアンビエントではなく)の曲を作った。
それは、バランスで、アルバムというトータルの中で、流れを見ていった時、私は、友人には足りないであろうもので、自分にあるものを補完していった、と思う、まぁ、いちいち考えて、理屈でやっているわけではないので、断言は出来ないけど。
二人のセッションで、曲の整合性をあまり重視していないのは、友人の性質を踏まえた上で、曲になりそうなノリを重視した結果ではある。
簡単に言うと、即興性を重視した。

簡単に言ってしまうと、私からすれば、友人の音楽性(嗜好性ではなく)は、いびつで、全的な円ではない。
それは、「音楽」としては、不完全で、聴く人の「不安」に触れるものがあるのではないだろうか。
ならば、その「不安」をどうしたいのか、どのように、それをリスナーと共有したいのか、という問いしか要らないだろうし、それが友人の音楽の本質的なものだと、私は捉えている。

私は、この、友人の、音楽性を、一度も否定したことがないだろう。
そして、二人のユニットのファーストアルバムには、それが前面に出ている。
「不安」を、「不安定」を、どのように他者や世界と共有していくのか、ということが。
別に、そんなことを考えながらアルバムを制作していったわけではなく、何度も聞き直してみて、多分、そうだろうな、と思うから、それを書いているだけのことではある。
私は、「不安」や「不安定」を音楽でやることを一度も否定したことなどないし、「不完全」だと言って批判した覚えもない。
それを批判し、否定しているのは、友人自身であろう。

ちょっと考えれば、当たり前のことだが、音楽というのは、空間である。そして、時間である。
音楽を聴くということは、空間と時間を共有する、ということに他ならない。
ならば、作り手としては、どのような空間と時間を、音楽で表現するか、ということが重要なのであって、私からすれば、それ以外にはない。

音楽を、曲を、部屋だとしてみようか。
建築、あるいは、内装、そして、コーディネイト、生活感、もしくは、無機質な。
私は、デイにおいては、部屋ではなく、草原に、四方に柱を立てることを心掛けた。音楽は、どうしても、仕切りが必要で、その仕切りが、柱である。
屋根はない、壁もない、ただ、草原があって、四方に柱がある、そこには、風が吹いている、光が降り注ぎ、雨が降っている、そして、時間が流れている、というイメージがあった。
ちなみに、柱という比喩は、今日思いついたもので、作っている時に、理屈で考えたことではない。
私は、理屈であまり音楽制作をしないので、感覚的に、具体的には、音と音の組み合わせがまずあって、そこからどのようにしていくか、ということばかりやっている。
ただ、言葉にならないコンセプトはある、アルバムごとに。
言葉が音に追いつかないし、追いつくまで待っていないから、言葉が曲の後に、おまけのようにやってくるだけのことではあるだろう。

ユニットのアルバムを聞き直して、友人のギターが明らかに上手くなっていることを再発見したし、そのギターの曲が悪いものではない、ということも確信した。
いや、そんなことは、初めて、「オーストラリア」を聞いた時に、分かったことではあるのだが。

これから目指すべきところは、胸を張って、自分の、自分達の曲を、世界中の人々に聞いてもらえるようにしていくことではないだろうか。
真摯に続けて、聞いてもらえるように、恥ずかしくない曲を、やれるようにしていく、それだけのことではないだろうか。

率直に言わせてもらうが、私はともかく、友人は、自分のギターのクオリティをわざわざ下げるようなことをする余裕はないだろう。
なぜならば、それは、私と友人の音楽的素質の差ではなく、制作ペースが、明らかに、私の方が友人よりも、早いからである。
単純に言うと、私の方が、友人よりも音楽をやっているように感じられる。
別に、今すぐに取り組まなくてもいいけど、ユニットを続けるならば、その差を出来るだけ埋めるように、友人にはギターに励んでもらいたい、とずっと思っている(ギターではなく、ベースやシンセでもいいけど)。
多分、友人は、音楽活動に関しては、この二人のユニットに専念して、ようやく私と同じぐらいのペースになるのではないか、と私は感じている。
私は、三週間で、一枚、アルバムを作ることが出来るけど、今の友人では、三週間でソロアルバムを作ることは難しそうだから。

ちなみに、私の制作ペースは、多分、音楽を始めて一年間の平均で言うと、一週間に一曲、作り続けている。
そして、私は私のことを天才(特別)だとは思っていないので、一週間に一曲ぐらい、やる気になれば、誰でもやれるだろう、という頭でいる。
そして、いや、そうではないな、と気づき始めているので、それならば、自分のことを、特別、そういう才能があるかも、と思っておいた方がいいな、と感じてもいる。
そうしないと、他人に対して、特に友人に、どうして一週間に新曲を一曲作れないのか、と思ってしまうからである。
私は別に、努力なんてしていない、苦労もしていない、ただただ、出来てしまうだけのことではあるのだが。

そして、私は、自分の音楽に手を抜くつもりも、制作ペースをわざと遅くするつもりもない。
いつだって、私は、全力で、本気で、音楽を作り続けてきた、最初から。
つまり、私は、音楽活動に関して、ずっと休むつもりなんて、はなからないのである。

私は、ここで、友人のことをダメ出ししているわけではない。
私には、一週間で一曲を作り続ける素質がたまたまあっただけのことであって、素質のことをあれこれと言っても仕方が無いのだから。
私は、賭け麻雀をやめた、つい最近。
なぜなら、私がいくら努力したところで、負け続けることがはっきりしたからで、それに耐えられなくなったからである。
わざわざ負けるのが分かっているのならば、負けるであろうお金を、音楽機材などに使った方が有意義だし、凹むこともない。
つまり、私には、麻雀の素質がなかったのである。

例えば、私は異性からモテたことがない。
それも、素質がないからである。
そのことを、誰が責めることが出来るだろう。
変えたくてもどうしようもないものを、人は抱えて生きている。
「音楽」というものもまた、そういうものなのではないだろうか。

例えば、私が手掛けているテクノミュージックは、同時に演奏するトラックの数が、他の人が手掛けたテクノミュージックよりも、多いのではないか、と感じている。
少ない人だと、二つか三つのトラックを同時にプレイしているようだが、私は、一つの曲に対して、五つのトラックを同時に使用している(増やしたり減らしたりして、曲に緩急をつけているつもりではあるのだが)。
その分、煩雑かつ、音が複雑にはなるだろう。
私は、それが心地いいので、そうしているだけなのだが、どうも、シンプルな方が、リスナーのウケはよさそうな印象を受けている。
二つか三つ、時に一つのトラックだけを演奏する方が心地いい人もいるのだろう。
私は、そうではない。
それもまた、素質というものなのかも知れない。