写真について 沸騰篇 第十回

写真について 沸騰篇 第十回

九時に布団を敷いて横になったものの、寝れない。
どうやら、僕は疲れているのだが、だから、眠りたいのだが、一昨日、立て続けに五回分、一気に沸騰篇を書いて、ここにアップして、癖になったのか、とりあえず、精神衛生上、書いてから寝ることにする。
くだらないことを思い出して、考えて、イラっとするし。
やはり、これは、頭が沸騰しているのだろう。
それは、仕方がないので、熱いカフェオレを飲みながら、B'zをiPhoneで聞きながら、ウルトラソウル! と心の中で叫んでみることにする。

友人とのユニットがどうなるかは、友人次第なので、こちらは、待ちAND受けに回ることにした。
とりあえず、次回のアルバムの曲順を考えてみたので、ここで暫定ではあるが、披露する。

1.DoubleDare
2.australia
3.Solidarity
4.?
5.?
6.?
7.?
8.?
9.6(仮の名前)
10.a fish , a child

アルバムのタイトルは、ユニット名をそのまま使おうかと考えていて、いい案が出なければ、DoubleDareでいいかな、と思っている。
押すと餡デールとか、ナヤンデールとかでも、僕としてはいいんだけどね。
ショッキングユー、とか、ムーンライト・エクスプレス、とか。
フィルターシガレッツ、なんか、かっこいいんじゃないかな。
僕は、その辺りは、かなり適当だから。

アルバムに収録する曲が5曲、未定で、僕は、あと、2曲ほど、入れればいいから、友人が3曲作れれば、それを入れてもいい。
多分、トータル11曲にしてしまうと、分数がCDの規定を超えてしまう恐れがあるから、今の段階では、10曲が望ましいかな。
その辺りの帳尻合わせは、これから考えていけばいいのだから。

友人の友人たちが詩の同人誌を作って、それに関する感想が書かれたブログをたまたま見て、引用が多く、丁寧な感想であった。
感想はともかく、引用を読む限り、だいたいどの作品も、一定以上のレベルがあり、つまり、ヘボではなく、これはこれでいいんじゃないか、と僕は思ってみた。
僕とはいろいろと、センスが違うだけで。

今日は、センスについて、書いてみようか。
僕がイラっとしている大きな原因の一つが、多分、センスの相違だから。
こんなこと、考えても仕方がないのだけど、ちょっと、前回、飛ばしすぎたので、今日は、グチグチとしたものを、肩の力を抜いて、グチグチと書いていこうかな。

こう、何て言うんだろう、詩の同人誌で言うとさ、作品の出来はともかく、ああ、日本的だな、という感じがあって、ここでの日本的は、日本人である私たちの日本人の為の詩、という感じがある。
僕が、現代詩というものがつくづくイヤに感じる時は、そういう、我々日本人の、という感じであって、結局それは、我々、という日本人だけのコミュニティの問題を扱っているな、と感じられてしまうからではないか。

音楽でもそういうのがあって、例えば、今、ツインさんの曲をiPhoneで流しているんだけど、ツインさんの曲には、そういう印象は受けない。
決して、オシャレではないし、ただ心地がいいのとも違う。
どこか、民族的ではあるし、近未来的でもあるし、アニメ的でもある。
閉塞感があるのだけど、開放感もある。
最近、クラブミュージックというのは、密室だからこその閉塞感と開放感が同居しているのではないか、と思ってみたりした。

日本っぽいのはダメだ、というのではなく、安易に外国に憧れ、かぶれたものを作ればいい、ということでもなく。
日本人なのだから、日本という環境、土着は消し去れないし、消し去る必要もない。
日本人の僕の作品が外国人からどのように受け取られるのか、また、外国人の作品を日本人の僕はどのように受け取るのか。
そういうことに興味がある。

僕は、自分の音楽に関して、日本人からの反応は諦めた方がいいかな、と感じる時がある。
それは、サウンドクラウドで相互フォローしている人のほとんどが多分、外国人で、そういう外国人の作った曲を聞いていて、まったく違和感を感じないからだし、たまに、日本人の、例えば、日本語の曲を聞いて(使われている言葉はあまり関係がないのだが)、かなり違和感を覚えてしまう。
違和感という味が口の中で広がる、という感じなのだ。

インスタグラムにしても、いいね! ボタンをだいたいいつも押してくれる人の半分以上は、外国人である。
インスタグラムで言うと、日本人が撮った写真よりも、外国人が撮った写真の方が、おっ、となることが多いように思う。
僕は別に、外国人受けなんて狙っていないし、そのような写真も撮っているつもりはない。
ただ、そうだな、日本人では当たり前すぎて撮らないであろうものを撮っていることが多いのかもしれない。
それは、日本人にとっては、新鮮味のない、つまらない写真であっても、外国人からすれば、一風変わったものに見えるかもしれない。
また、僕は、外国人の撮った写真を、そのように見ている可能性もあるだろう。

いつからなのか分からないけど、詩にしても、音楽にしても、日本人の作品には、お笑いで言うところの、あるあるネタ、みたいなセンスが通底しているのかもしれない。
ああ、それってあるよね、みたいなセンス。
僕は、そういうの、苦手だなぁ。
僕は、そういう風に、音楽は作っていないし、写真を撮っていないなぁ、多分。

何かさ、やればやるほど、上達すればするほど、日本人というコミュニティ、すなわち、我々、から遠ざかっていくような感覚があって、どんどん孤独感が増していく。
どうしてこんなにも孤独なんだ、ということにイラっとして、どうしてわざわざ孤独になるようなことをしているんだ、ということに帰結するような気がしている。
写真はまぁいいのだけど、音楽はさ、そういうものになるなんて思っていなかったから、自分でゾッとしているところがある。

共有というタイトルの曲は、今のところ自信作で、自分としては、よく出来たな、と自画自賛しているんだけど、これをいいという人はどれぐらいいるんだろう、と思うと、ゲンナリしてくるから、あまり考えないようにはしている。
そういうことは、考えてはいけないね。
考えても虚しくなるだけだから。
三枚目のアルバム、デイも同じことだけど。
こんなにいいアルバムなのに、どうしていいね! と言ってくれる人がいないんだろう、と。
だから、もう、音楽を辞めちゃおうかな、と思う僕がいる。
それで、手抜きのRECシリーズは聞きやすい、と言われた日には、途方にくれてしまうわけで。
あっちよりも、こっちの方がいいぜ、と作った僕は思うのだけど、こっちの方は、受け入れにくい、みたいに言われちゃってさ。
RECシリーズは、言ってみれば、音の素材集みたいなもので、まず、素材を揃えて、どう調理するか、再点検しよう、というものでしかないんだから。
もう、僕は、素材を素材としてやった方がいいのか、とも思うよ。
素材と素材を組み合わせて、どのように調理するか、というのは辞めてさ。

僕の作った音楽たちがどの程度のレベルなのか、ということにはあまり興味はない。
別に僕はプロを目指しているわけではないのだから。
でも、僕は、これはいい! という曲は、いい! といか思えないし、手を抜いたようなものの方がいい、と言われちゃうと、手間暇かけた料理を作るのはやめようかな、という主婦の気持ち。
冷凍食品でいいか、みたいな。
すべからくよくない、とかさ、あなたには音楽センスがない、と言われた方が、せいせいするね。
もともと、音楽には苦手意識があるし、僕は音痴だし、知識もまったくないのだから。

そもそも、僕は、エンターテイメントとしての音楽を作るつもりはないし、そういう意味で心地よさは度外視しているから、それで聞き辛いのかもしれない。
ここから先ははっきりと書かないけど、それって、やはりあるあるネタみたいなところがあるのかな、という気にもなる。
共有っていうのは、あるあるネタのことだったのか、みたいな。
僕にとって、それは、宇宙祭りのことだったようだけど、宇宙祭りって何? とか言われたら、困るわけで。
それはもしかしたらあるかもしれない宇宙のお祭りのことだ、ということでしかないから。
それは、僕の中では確かに存在している何かなんだ、という。

まぁ、そういうのは、気にしても仕様がないので、余計なことは考えずに、やるのがいい、というのは、分かっているんだけどね。

自分の音楽に関して、これはいい、これは悪い、という判断はそれほどブレていないような気がしている。
だから、自分の判断を信じて、やっていくしかないし、やっていけばいいだけのことで、つまり、今回はただの愚痴でしかないんだけど、やはり、手を抜かずにやる、ということ、それが次の道につながっているような気はしている。

これだけは言えるけど、今後、僕は、キャッチーな曲は作らない。
そんな曲、一度も作ったことないし、作れないだろうけど。
いや、共有という曲は、僕の中ではサービス精神溢れたキャッチーな曲ではあるんだけどね。
そういう自分と世間とのギャップやズレはいつもあって、シンドイなぁ。
まぁ、アンビエント自体が、キャッチーではないし、僕の周りで聞いている人はいないから、そういうことだな、という結論で今回は終わろうか。