写真について 沸騰篇 第五回

写真について 沸騰篇 第五回

今日も気持ちよくうんちが出た。

まず、初めに書いておきたいことは、今回と次回、僕は個人を批判したり非難する考えでこの文章を書くわけではないことである。
誰かを責めているわけではないので、そのつもりで読んでもらいたい。

さて、何やら、写真のことは忘れてしまって、音楽について、書き綴っているのだが、それは、今、僕が、新しいアルバムに向けて、「音楽活動」をしているに他ならない。
ジャケットのデザインもだいたいのところまで作って(十五分ほどで)、残り2曲、iPhoneのアプリを使って、作曲するところまで来た。
現在、サウンドクラウドのアプリが不調で、曲をアップできないので、アプリがバージョンアップして、改善されたら、録音した2曲、そして、まだ手がけていない新作2曲をアップして、アルバム制作に入ろうかと思っている。

友人の名前をここで出してもいいのか、出さない方がいいのか、よく分からないので、無難に名前を伏せておくことにするが、今日、仕事の帰りに考えたことに近いことを、友人がブログで、今日の昼過ぎに書いていて、それは、タマタマであるが、結局、それは、音楽にまつわることでもあるので、さほど驚いてもいない。
ああ、ここだな、と僕も友人も把握している、ああ、ここで躓いているんだ、という認識が近いだけのことであった。

音楽制作において、ただ、アイドルだけでは成立しない。

どうしてアイドルなのか、というと、あまちゃんを毎日楽しみにしている僕だからなのだが、世間で話題の朝ドラのあまちゃんがこれほど面白いとは予想していなかった。
僕は、第二部の、アイドル篇の途中から見始めたのだが、やはりクドカンは天才だと思うし、潮騒のメモリーは名曲だと思う。
まず間違いなく、紅白に出場するだろう。
あまちゃんというドラマの魅力について、語り出したらキリがないので、やめておくが、面白さは、僕の中で、アニメ・シュタインズゲートに匹敵する。

これだけは言っておきたいのだが、震災後、東北を舞台とし、東北の活性化につながった作品は、あまちゃんをおいて存在しないのではないか。
東北のイメージアップ、と言ってもいい。
そういった意味においても、脚本家のクドカンは天才なのだ。

音楽を、歌とダンス、とした場合、舞台に立っているアイドル=演者だけでは、音楽は成立しない。
まず、曲がいる。
アイドルはまず、自分で作曲しない。
そして、ダンスの振付師がいる。
基本的に、アイドルは、自分でダンスを創作しいないものだからである。
そして、舞台監督、プロデューサー、などの調整、演出、宣伝、などを経て、アイドルはそこで歌とダンスを披露することが出来る。

僕は、コピーバンド、コピーソングをする人のことを考えていた。
わざわざ考えていたのは、僕がカラオケ以外に、そういうことをしないからである。
僕は、初めから、自分の音楽を演奏していた。
その辺りのことは、次回、書こうと思っているのだが、僕は、サウンドクラウドを利用してから、ほとんど、自分の曲しかアップしていない。
だいたい、今までで、100曲以上(クソ下手くそなキーボード演奏を含めて)、サウンドクラウドにアップしたかと思う。

例えば、ギターにしろ、バンドにしろ、どのようにギターの音を使うか、バンドによる音の組み合わせを使うか、決める必要がある。
ここでは、演奏者は、すなわち、舞台上の演者、スタジオにおける演奏者に当たるのだが、演劇で考えるならば、どのような戯曲で、そのような舞台演出で、どのような衣装で、どのように、誰を演じるか、自分たちで決める必要がある。
それがなければ、オリジナルとは言えない。
さて、誰かの曲をコピーするということは、僕にとって、塗り絵に近い。
それは、どこかですでに演じられた演劇をなぞることに等しいだろう。
だから、演者=演奏者たちは、ただ、演者=役者であればいいわけである。
そこには、役者がいる。
あるいは、役者を演じたい人たちが。
そして、舞台には、役者=アイドルしかいない。
そこでは、音楽全体を把握し、調整する人の役割は、独特のアレンジなどをしないのならば、あまり難しくないだろう。
従って、演奏者は、演奏する人を演じればいいのであった。