写真について 沸騰篇 第一回

写真について 沸騰篇 第一回

今日は、急ぎのデジタルアルバムの編集の仕事があったので、朝から夜まで、ずっと部屋で、PCに向かって、仕事をしていた。
そうしていたら、頭が沸騰してきて、ほとんど妬みのような苛立ちが湧いてきて、どうしようもないから、ノートに自分の頭の想念をメモして、ブログで書こう、と決めた。
妬みなんてものは、書いても仕方がないので、少し愚痴る程度にして、またまた、写真について、考えてみることにする。
今回は、具体的な読者を想定せず、ただ、自分の沸騰した頭をどうにかしたいが為に、書くだけである。

写真について書いていく前に、音楽について、書いていく。
このペースだと、今月中に、今取り組んでいるRECシリーズが終わるだろう。
そうしたら、ちょっと本腰を入れて、八月から、音楽活動(活動というほどのものではないけど)を開始したい、と思っている。
ギタリストとの共同制作も具体的に考えている。
お互いに、サウンドクラウドに曲をアップし、その曲をダウンロードして、PCにスピーカーをつないで、自分の演奏を重ねて、iPhoneに録音する。
原始的な方法だが、原始的に今までやってきたのだから、それを周到して、やればいいだろう。
僕の方は、曲がだんだんとイメージ出来つつある。
カオシレーターを使って、シンプルなものにする予定である。

前回、書いたと思うが、僕は、自分の写真の才能について、あまり悩んでこなかった。
何故なら、悩まなくてはならない状況になったことが少ないからだ。
仕事の写真や撮影は、失敗ばかりで、ちっとも偉ぶれないし、ポートフォリオに取り組んでいる時は、自分の下手さ加減、撮れなさ加減に嫌気がさすのだが、ポートフォリオなんてものは、撮り続ける中で、どうにかしていくしかないので、悩むなんて無駄なことを、僕はしないように気を付けている。

つまり、僕の写真は、作者としては、大勢の人たちに向けたことはないし、褒められるにしろ、酷評されるにせよ、それは、あなたという個人が言っていることに過ぎないからである。
僕は、別に、個人であるあなたを蔑ろに考えているわけではなく、評価というのは、個人である限り、個人差が必ず生じる。
ならば、僕が耳を傾けるべきは、あなたという個人なのであった。

あなたと僕は違う。

僕は、元々、客観性なるものを信じていない。
そんなものは、当てにならないことを知っている。
客観性なるものに、悩み苦しんでいた時期もあるのだが、考え続けた結果、客観性なるものは、主観性(=個性)を持てない人たちが、主観性がない故に当てにしているものであることが往々にしてあることに気付いたからだ。
だから、客観的な意見というものは、僕の心を打たない。
個性がない言葉なんてものに、面白みなんてないからだ。

客観性というのは、ここではすでに、建前に成り果ててしまっている。
個性、というのは、だいたいにおいて、その人の本音である。
建前が人の心を打つ訳がない。
それは、周囲の社会的な環境や状況が生み出し、人々を威圧的に強いる観念なのだから。
建前は心をワクワクはさせないし、建前から生じた客観性に面白みがあるはずはない。

それは、自分勝手、というのとは違うし、自己満足なだけ、というのは、もっと違う。
僕は、個性から発せられたであろう評価や意見には、耳を傾けているからである。
そして、あなたと僕は違う、と思っているだけのことなのだ。
あなたと僕は違う、というのは、拒絶ではなく、許容である。
違うものを一緒くたにしてしまうと、本質がこじれていく。
ここでいう本質とは、作品の本質である。

作品を生み出す上で、一番重要なのは、軸である。
軸がなければ、作品の本質(やりたいこと、伝えたいこと、残したいこと、など)がズレて、持続されない。
持続されなければ、チグハグとなり、支離滅裂になってしまう。
これは、初めから、チグハグさや、支離滅裂さを目指したものとは異なる。
つまり、ただ、デタラメなだけである。
作品の質は、本質が作り上げる。
つまり、軸がなければ、作品の質を形成させることが困難になるのだ。

ほとんどの場合、他人の意見が、この作品の本質=軸に沿って言われることはない。
何故なら、あなたと僕は違うからである。
そして、作品は、本質だけで形成されるものでもない。
自分にとって取るに足りない瑣末なものやこと、気が付かなかったところでの指摘は、作品の豊かさにつながる。
豊かさとは、まさに、豊穣である。
それは、受け取られるイメージの多様化に等しい。
厳密なメッセージを他人に伝えたいのならば、この豊かさは、ただ、邪魔な、不本意なものになるだろう。
豊かさを目指すこととは、あなたと僕は違う、というところを立脚点とし、数多のあなたと僕の違いを排除せず、許容することなのである。