続・写真について 第十回

続・写真について 第十回

このシリーズ、もう十回目であるのだが、僕がはたして、写真について書いているのか、それとも、ただの愚痴を書いているのか、よく分からない。
ほとんど写真とは関係のないことを、無理矢理、写真に関連させて書いているだけなのではないか、と思えなくもなく、実際のところ、写真は、写真以外のものによって、成立している。
写真は、事物を支えているものたちによって、成立しているのだ。

ああ、今回のシリーズは、小難しいことを書かないでおこう、と思っているので、僕のような写真を撮るにはどうすればいいのか、要点だけを述べていく。

アップで撮ればいい。

以上。

寄れるだけ寄って撮ればいい。
撮りたいものを、一つに絞って、寄って行けばいい。

多分、僕は写真が下手ではない。あるいは、写真を、他の人とは別の意味合いで使っているのかも知れない。
僕は、写真において、一定のものではなく、幾つかの要素を瞬時に組み合わせて、入れているのだが、それは、やろうと思って、やれるものではないだろう。
すなわち、絶望の中に希望はあり、希望の中に絶望がある、ということだし、幸福の中にも不幸はあり、不幸の中にも幸福はある、ということである。
それは、考えて分かることではない。
人とはすでにして、そういうものなのであった。

つまり、悲しみ、という言葉には、喜び、という感情が内包されている。
そうでなければ、人は悲しみを感得することが出来ないし、生きていくことも叶わないだろう。
喜び、という言葉には、いつだって、悲しみが隣り合わせに存在している。
だから、人は喜びの中で、切なくなる。

アップで撮るというのは、僕が、ものをアップで見ているからなのではないだろうか。
全体の視界の中で、光り輝いているところがある(実際に光が当たっているか、ということではなく)。
そこを切り取っている。
僕は、写真を撮る時に、頭で、言葉で、考えているわけではない。
その、感覚をここで説明しても意味はないだろう、何故なら、それは理解出来ないだろうから。
寄って、アップで撮影する、その写真には、撮り手の内面が現れやすいのではないだろうか。
それは、自覚しているか、無自覚なものなのか、よく分からない領域で、現れがあるはずなのだ。

写真を撮るのに、いちいち悩んでいては、めんどくさい。
この面倒を楽しめる人もいるだろうけど、僕は、あまり面倒なのはイヤなので、いちいち悩まない。
実際の撮影では、どの距離で、どの角度で撮影するのか、ほとんど、瞬時に把握している。
この自分の直感に従うことだけを、気をつけている。
自分の直感が分からないのであれば、とにかくアップで撮っていればいい、そこには、撮り手の何かが写し出されている。
僕は、それぐらいには、写真を信じている。

今日、バーベキューに行く前に、
時間があったので、花を撮っていたのだが、今日は天気がよく、気分もよく、どのように撮っても同じことなのではないか、と強く感じた。
道端で咲いている草花を、表から撮っても、裏から撮っても、順光でも、逆光でも、同じものを写しているのではないか、すなわち、全体を損なうことがなく、そこにある、という感覚があった。
だとしたら、どのようにトリミングするか、その選択には、ほとんど意味がない。
これは、あまり言わない方がいいことなのではないか、と思っているのだが。

今回は、かなり写真の本質に近づいたことを書いたのではないか、と思う。
そして、この、僕が本質だと捉えていることを、理解出来る人は、多分、あまりいないだろう。

・写真は、事物を支えているものたちによって、成立している。

・どのようにトリミングしても損なわれないものがある。

これは、いわゆる写真の常識では受け入れ難い考えなのかも知れない。
悩みながら撮る必要はなく、さらに、上手く撮る必要もない。
なぜなら、すでにそこにあり、その、あるものを、写真は写し出すからである。
見栄えのする撮り方を工夫する必要もない。
下らない工夫を凝らすよりかは、寄って、見つめて、撮ればいい。