続・写真について 第九回

続・写真について 第九回

今日は、宇賀渓にて、バーベキューをしてきた。
昨日も休みで、仕事の疲れで、夕方まで寝ていた、今日は天気がよく、気分よく、撮影もたくさんした。

宇賀渓に行くまでの車内、ニュースで、食品工場の職員が、商品に針を混入して捕まった、28歳の男性のことを扱っていて、どうして針を混入したのか分からない、ということを、運転手の人が言っていて、僕も相槌を打っていたのだが、よくよく考えてみると、針を混入したい気持ちは、僕には、理解できなくもなさそうだった。
針を混入した28歳の男性は、世間というものに対して、あるいは、自分を取り巻く環境や状況に、憎悪を抱いているのだろう。
この憎悪を、針を混入するという、自分の仕事、つまり、社会的行為の中に、明確な形として、発現させたかったのではないだろうか。
ニュースでは、食品の中に針が混入している事件が立て続けに起こっている、とのことで、世の中に対しての、あるいは、自分の仕事に対しての、明確な、無差別な憎悪(本当は無差別ではないのだが)の現し方に、共感を寄せる人もそれほど珍しくないのかも知れない。

ネットにおける誹謗中傷、時にはヒステリックな批判文も、僕にしてみれば、針を混入する気持ちに近いのではないか、と感じられる。
つまり、針を混入して、誰かを殺傷したい、という気持ちは、さほど珍しいことではなく、どのように発現させるか、というところに、その人の本質があるように思う。

僕の場合、どうやら、それは、写真に現れている。
インスタグラムにアップしている現在の僕の写真は、暗い。
さらに、下手に見えやすい。
実際、下手な場合も多く、僕がフォローしている六十人近くの人たちがインスタグラムでアップしている写真とは、まったく異なる現れ方をしている。

僕が、そのような写真を、ネットという、公の場所に公開しているのは、針を写真に忍ばせて、見た人を傷つけたい、という気持ちがまったくない、とは言えない。
正直に言えば、傷つけたい、という気持ちは、僕にはないだろうし、僕の写真を見て、傷つく人はほとんどいないだろう。
僕は、世間において、目障りだとされているであろうものたちを、目障りだとせずに、写している自覚はある。
多分、それは、写真を見る人の傷、悲しみに触れることもあるだろう。
僕には自覚はないのだが、僕の写真には、悲しみが漂っているらしい。
僕自身は、自身の悲しみを写真に込めている自覚はさほどない。
何せ、写真を写している時は、ほとんど何も考えてはいない。
ただ、僕は見ている、感じているだけなのであった。

分からない人には分からないことで、別に、そういう人は、一生、分からなくてもいいのだが、写真に針をまったく混入しない、それらの写真が、特定の人たちを傷つけることもある。
写真とは、存在を写し出す。
それは、存在を認めることである。
時に、それは、見る側に、あなたは存在していてもいい、と写真が囁くような声で伝えることもある。
当然、あなたという他者を存在させたくない、認めたくない人たちからすれば、目障りでしかない、ノイズでしかない写真にしか見えないだろう。

針を混入した、というニュースを見て、ああ、こういうやり方があったのか、それをしてもいいのか、と共感した人間が、それを模倣する、という事態があったとしても、僕には理解できなくはない。
きっと、人間とはそのようなものだから。
ネットにおける罵詈雑言を見ていても、きっと、同様の共振が起こっている。
それは、そういう人たちにとっての居場所であり、一体感を得られる行為なのだろう。

ただ、毒というものは、気をつけないと、自分を著しく傷つけ、損なわせる。
他人に現した毒は、往々にして、自分へと返っていく。
そして、時々は、毒を発現させないと、毒は内部から、すなわち、自身の心を知らないうちに蝕んでいく。
毒をまったくなくすことは、ほとんどの人には不可能だろう。

せめて、写真ぐらいは、他人に多大な迷惑をかけない範囲で、自分の好きな写真を撮ればいい。