続・写真について 第三回

続・写真について 第三回

写真の事情に関わっていた頃の話。
僕は、共同の写真展を企画して行っており、そこに参加してきた若い女性がいた。
その女性は、美大生で、デザインを専攻しているのだが、授業で習った写真に興味が湧いてきて、学校の暗室でモノクロームフィルムの現像・プリントを行ったり、地元の写真屋でアルバイトをしている、ということだった。
この女性の写真については、今、ここで書きたいわけではないので、スルーするのだが、この女性が奇妙なことを言っていたことを思い出した。
私には写真をやる資格がない、だから、資格が欲しい、というようなことを言っていた。

どうやら、そうとう真剣に、そのことについて、悩んでいるようだったのだが、僕にとって奇妙なのは、写真をやるのに資格なんているのだろうか、やりたいのなら、黙ってやればいいのに、と。
僕にとって、それは、かなり不思議で奇妙な思考回路なのだが、別に仕事でもないのだから、自分の気が済むように、写真を撮って、展示したいならどこかで展示すればいいだけのことなのでないだろうか。

僕は、この女性ではないので、どういう心境だったのか、イマイチ解りかねるのだが、予想してみるに、自分は写真が下手だから情けなく思っている、だから、情けないと思わなくていいぐらいに写真を上手くなりたい、ということだったのではないだろうか、と、ここで仮定してみる。
ここで重要なのは、この女性が、どのぐらい写真が好きで、今後、どのように写真と付き合いたいと思っているのか、ということだと思うのだが、本当に写真が好きで、本当に写真を上手くなりたいと願っているのなら、プロカメラマンになればいい。
デザイナーの道を進まず、カメラマンの道に進めばいい。
職場の先輩に教われることはたくさんあるし、仕事をする上で学ばなくてはならないこともたくさん出てくるだろう。
それを一生懸命にやったらいいだけのことである。

それと、一通りの写真集や、写真論、写真の歴史ぐらいは目を通しておいた方がいいだろう。
そんなことをやっても、写真は上手くならないのだが、写真をやる資格、とか難しいことを言い出すのならば、写真のことを知っておく必要があるのではないだろうか。
写真について無知なのは、写真に対して失礼にあたるのではないか、と僕は考えている。

もう一人、別の美大生の写真のことを書く。
この美大生とも、僕が写真の事業に関わっていた時に知り合った。
女友達のヌードを撮影している、というので、どんなおっぱいなのか、見にグループ展に行ったら、おっぱいどころか、黒潰れして、何が何やら分からないプリントが五枚ほど展示されていた。
いく筋かの、カラフルな、虹のような光が写っていて、あとは、ほとんど真っ暗な写真であった。
これのどこがヌードなのか、僕にはよく分からない。
僕は、美大生の女性が会場にいたので、こういう写真は被写体に対して失礼だ、と説教したら、かなり怒っていた。

ヌードだからおっぱいが写っていなければいけない、ということではない。
おっぱいが問題なのではなく、ヌードを写すのであれば、ヌードを見なければならないのだけど、これらの写真は、どう考えても、見ようとしていない写真だったのだ。
見ようとしていないから、平気で、露光不足の黒潰れした写真を撮って、展示することが出来る。
暗い中で、妖しい感じを出したい、というのならば、写っているか写っていないかの、ギリギリのトーンを出す、という方法もある。
そういう写真の手法は昔からある。
確か、ローキー調、という名前だったかな(露出オーバーで白飛びに近い写真の手法は、ハイキー調というんじゃなかったかな、記憶が曖昧で自信はないけど)。
ちなみに、野村さんの写真は、全体的にローキー調で、黒の締まりに色気が漂っている。
または、スタイケンさんのように、裸の肉体の一部分をトリミングして、姿形の妙を強調する手法もある。
ヌードといっても、別にグラビアフォトみたいな写真だけを指しているわけではない。

美大生の女性が何をどう勘違いしてしまったのか、写真における主役は、当然、被写体であり、被写体を平気で黒潰れさせたり、白飛びさせたりすることは、主役を蔑ろにしているに等しいのである。
つまり、写真とは、被写体の魅力を最大限に引き出そうとする営みであり、それを描写しようとしないということは、主役である被写体を蔑ろにしているのだ。

ポートレートの場合、モデルの尊厳に関わってくる。
ヌードならば、裸という肉体の尊厳を写そうとするべきではないだろうか。
別にサンタフェ宮沢りえさんのように、特別に美しい裸を目指す必要はない。
持って生まれた肉体の存在に目を向ければいい。
それは、別におっぱいだけのことではなく、人の顔というものは、とても様々な、複雑な表情を持っている。
その中から、どれを強調し、写し出そうとするかに、自ずと、写真家の被写体に対しての尊敬や畏怖、心の動きが現れてくる。

写真を撮る資格というものがあるとすれば、それは、目を向ける、ということだ。
自分の目で見て、写し出そうとすることである。
それは、写し出そうとしないことではない。