続・写真について 第二回

続・写真について 第二回

先日、撮影の仕事のスタジオで、久しぶりに、カメラマンの後輩と出会った。
話していたら、秋に、郊外で個展をやるという。
それで、額装について、ちょっと相談を受けたのだが、一ヶ月ほど行われる個展を行う場所は、オシャレなギャラリー兼カフェで、そこのお隣はこれまたオシャレな花屋、どうやら、ギャラリーと花屋は同じ経営者のようだ。
僕は後輩が作品撮りを順調に進めているとは思っていなかったので、これは、嬉しい驚きだった。

オシャレな花屋の隣にある、オシャレなギャラリー兼カフェ。
そして、期間は一ヶ月。
場所が郊外だということ除けば、申し分のない場所だと言えるだろう。
しかし、話はそうそう自分の都合通りにはいかないもので、後輩の話によると、ギャラリーのオーナーが、写真の個展を行う上で、ある条件を出してきたらしい。
その条件とは、お客様に対して、威圧的な写真は展示しないこと、また、店内の雰囲気にそぐわないものは展示しないこと。
オシャレなギャラリー兼カフェだということなので、多分、オシャレではない写真はNGなのだろう。
後輩に詳しく聞いてみると、ポートレートの場合、モデルがカメラ目線のものはNGだということだ。
理由は、カメラ目線だと、見ているお客様の気分を損なう可能性があるから、とのこと。

僕がこの場所で展示をするわけではないので、関係がない話なのだが、もし僕がそこで個展をするとなったとしたら、ほとんどの写真は、そこで展示することは出来ないだろう。
特に、花の写真は、オーナーから速攻でNGをくらいそうだ。
なぜなら、僕の花の写真は、花屋で売られているような、形の整ったものではない。
道端で咲いている草花が多く、枯れた花もけっこう撮影している。
萎れかけだったり、枯れかけの花だったり、そういう意味で、僕は、見栄えのする花を、見栄えがするようには、あまり撮影していないのではないだろうか。
僕の花の写真は、写真を見て、その花を買って、部屋に飾りたいと、見ている人たちに訴えかけるようなものではない。
ただ、花がある、というだけのもので、その、ただの花たちは、僕の目には、とても生々しい。
この生々しさは、オシャレとも、キレイとも異なる、僕は、花に、オシャレもキレイも求めてはいない、ただ、花は花であり、それは時に大胆で、時に不気味なものでもある。
花というのは、見れば見るほど、不思議なもので、その姿形は、僕の目には、キレイには写らない。
花はただ花としてあり続け、その花は、僕の心の中で、生々しく現れてくる。
花は恐ろしく、生々しい。

後輩の写真は、僕よりも生々しい写真を撮っていない筈なので、カメラ目線ではない写真を選べば、問題なく個展が行えるだろう。

ふと、そのことと連動して思い出したことがある。
数年前、僕は、作品撮りがそうとう辛かった時期があった。
なぜ辛かったのかというと、写真教室を事業の一環で行う話があり、その事業の為に、つまり、客寄せになるような写真を撮らなければならなかったからである。
客寄せになるような写真とは、わー、こんな写真を自分も撮ってみたい、と思ってもらえるような写真であり、僕は、カメラ雑誌を見たり、ギャラリー巡りをしたりして、自分なりに研究したり、勉強したりしていた。
それでも、そういう写真を僕は撮れなかったし、向いてもいなかった。
いいね!のボタンをたくさん押してもらえるような、今風の写真は、僕には撮れない。
もっと言ってしまうと、どこかで、そういう写真を撮りたくない気持ちもあったのではないだろうか。
オシャレでキレイな写真を、僕は心のどこかで嫌悪している。
なぜなら、そういう写真は、いつも生々しくなく、嘘を写していると感じられてならないからだ。
少なくても、僕の心を本当に打ったことは一度もないだろう。

事業は失敗に終わり、客寄せの写真を撮らなくてもよくなった僕は、ずっと、自分の気にいる写真だけを、作品撮りしている。
自分が気に入らない写真は、撮りたくないし、撮る必要も感じられないので、撮らない。
規制されない開放感を、作品撮りを始めて、強く感じた。

そもそも、僕は、見る人を不愉快にさせる写真でも構わない、と考えている。
どうして、見て不愉快になる写真はダメなのだろう。
別に構わないじゃないか、と僕は思っている。
だったら、ブサイクな人は、写真に写ってはいけない、ということになりかねない。
ブサイクな花は撮る価値はない、というのも同じことである。
そんなことは、誰が決めたというのか。
キレイなものをキレイに撮るだけが写真ではないだろう。
そもそも、キレイとは何なのだろうか。
枯れた花も花である。
咲いていない花も花である。