ゆしらくんのブログの覚え書きを読んで。

ゆしらくんのブログの覚え書きを読んで。

難しいことが書かれていたから、先ほど、プリントアウトして、紙の文字として読んでみた。
とても興味深かった。

原始人にとって心とは、自然に対しての畏怖、そして、信仰心だったのではないか、と僕は思った。
天候(天災)、狩猟だろうと、農耕だろうと、今日や明日の食料を確保するのは、自分たち人間の力が及ばないところにあった。
洪水などによる被害もあっただろう。

生存において、人間は不安定であった。
それに対する恐れ、願い、祈りといったものが、信仰に向かったのではないか。
人智を超えた存在を、原始時代から、人間は肌で感じ取っていたのではないだろうか。

感性についてもちょっと考えていた。
例えば、僕は写真を撮り、音楽をやっているが、それらは一体何なのだろう?
僕は、アンビエントミュージックが向いているな、と思っていて、僕は、アンビエントミュージックをほとんど聞いてこなかった。最近になって、知っておきたい、と思って、YouTubeでいくつか、ブライアン・イーノの曲を聞いたぐらいで。

写真にしても、花、色、など、あまり類を見ない写真を僕は多分撮り続けている。
僕は、特に創意工夫をしているわけでも、独自性を追求しているわけでもない。
簡単に言ってしまえば、自分の感性に従って、写真や音楽をやっているに過ぎない。

この、自分の感性というものはどこからやってきたのか、僕はよく分からない。
一つ言えることは、必ずしも、自分で強く望んで、その形になったわけではない、ということだ。
作品の方で、自発的に現れてきた、と感じることもある。
音楽は特にそうで、僕は、自分がやれること、やれそうなことを率先してやってきた。自分がやれないことはやれなかっただけのことである。

つまり、自分が向いていそうなものに取り組み、自分に向いていないものはあまり取り組まなかった。

最近、感じるのは、僕の写真の根底には、自分が見てきた夢が関連しているのではないか、ということだ。
色、形、場面、空気、など、僕は夢の中で実際に見たり感じたりしたのでないか。
それを僕は写真を使って拾い集めているのではないか、という気持ちも出てきている。

ということは、作品を他人と共有するということは、夢を共有することだとも言えそうな気がする。
じゃあ夢とは何か、というのは、僕にはよく分からない。
多分、無意識から発生した何か、なのだろうとは思う。
じゃあ、無意識とは何か、というのも、僕には分からない。
それもまた、心というものなのだろう。
だから、僕はやっぱり、心というものがよく分からない。