違和感が残る

違和感が残る。

先日、とある人のブログを読んだのだが、被害者意識うんぬんとか、書かれていて、かなり違和感が残った。

今朝、その、とある人の最近のブログの文章を何日分か読んで、ああ、この人はこういう人なのかな、と思ったのだが、考えるのなら、もうちょっと根気を持って、悩み続けなければいけないだろうに、と思った。
この人は、すでに、自分の中に答えを持っている。それを、文章で書いている。だから、あれらの文章は、イデオロギーになってしまっているのではないだろうか。

最近、養老さんの超バカの壁、という新書を読み終えた。この本の中に、被害者意識について、簡単に書かれていて、そういうところもあるだろうな、と思った。
日本が都市化してきて、何か都合が悪いことがあったら、すぐに他人の所為だと思う人が増えた、みたいな内容であった。

僕の身に降りかかってきたことで、今も悩んでいるし、苦しんでいる。夢の中で、今でも時々、特定の他人を撲殺したり、刺殺する夢を見る。
ならば、僕は、被害者なのだろうか。
多分、被害者と言えば、被害者なのだろう。
しかし、これは、僕自身の問題であり、自分との戦いなのではないか、とも感じている。

僕は、一年九ヶ月、四万枚以上の写真を、ポートフォリオ制作の為に撮影した。
これはつまり、今までの過去、今までの僕の人生の中で、環境の中で知らぬ間に影響を受けてきた様々なものを濯ぎたい、一度無にしたい、と思って、取り組んだ一面もある。
逆に言えば、一度受けた家族や、さまざまな他人のことを、一旦、灌ぐ為には、一年九ヶ月、四万枚以上の写真を撮影するという行為が必要だった、ということだ。
それでも、灌げたとは思えない。
思えないが、以前よりはいくらかマシになったのではないか、と感じている。

意識というものは、かなり不自由なもので、様々な影響、過去からの因縁が絡んできている。
認識とは、そういうものである。
そこから自由になる為には、一旦、意識から外れるしかない。
僕は、たびたび、今でも、花を撮影している。
花というものは、自然であり、意識的ではない。
風や光も、意識的ではない。
そこに身を寄せる。
そうすることで、感じられることはある。
そこには、被害者も加害者もない。
そこには、ただ、存在があるだけだ。
ただの自分、ただの花がある。
そこには、ただの悲しみがあり、ただの喜びがあり、ただ、生きている、という現実があった。

僕はよく、人の文章、人の作品を見て、違和感を覚えることがある。
それをいちいち言ってもキリがないし、それを本人に言ったところでどうにもならないことを知っているので、黙っている。
僕は、そういう違和感を、自身の写真や音楽などで、表明しようと思うところがあるのだが、それは、言葉ではない。
形、色、音である。
言葉なんてものを、今の僕はほとんど信じてはいない。

意識を変える、というのは、きっと、途方もないことだ。
その画一的方法はない。

夜と霧という本の中に、有名な言葉がある。
どんな状況になっても、最終的に自分の態度を決定する権利を誰もが持っている、というような内容の言葉で、僕はそれを、NHKの番組で知ったのだが、その通りだな、と思った。
自身の態度の決定権は自分が持っている、それが自由なのだ。

少し前、とある人が、私の知り合いのカメラマンが運営しているスタジオを退職した。
もともと、私が毎回参加している異業種交流会という名目の飲み会の参加者で、そこには、僕の先輩カメラマンで、社長をしている人が二人、参加しているのだが、とある人は、写真が好きで、勤め先を退職してプロカメラマンを目指している、と言っていたので、僕が、知り合いの社長に、口添えして、そこの会社のカメラマンとして働いていたのであった。
働き出して二ヶ月ほどして、突然、社長にメールで退職の旨を伝えたらしい。
僕が就職の口添えしたので、申し訳ないな、と思っていたのだが、込み入った事情はこちらから聞くことではないな、と思って、黙って話を聞いていた。

先日、込み入った事情を少し社長が僕に話したのだが、社長がとある人の写真を批判したらしく、それに傷ついて、仕事を辞めたらしい。多分、それだけが原因ではないとは思うのだが、たかだか、自分の写真が悪く言われたぐらいで辞めるなんて理解出来ないな、とは思った。

そういう人が、けっこう多い。
結局、自惚れているだけのことだろう。
自分は凄い、自分には才能がある、と信じたいのだろう。
学生には、このタイプが多い。

近頃、僕は、よくない作品には、よくないと言った方がいいんじゃないか、と思っているのだが、写真に関しては、言っても虚しくなるだけだから、言いたくないな、とも思っている。
仕事と作品は別物だから、仕事の写真としてどうか、ということならば、言えるだろうけど、作品に関しては、好きにしたらいいんじゃないの、と思うことが多い。

写真というのは、押せば写るわけで、誰でもある程度はそれなりの写真が撮れるようになっている。Photoshopなどを用いて、綺麗に画像を加工することも出来る。
それで勘違いする人もいることだろう。

仕事ではなく、作品を制作するにしても、めんどくさいこと、壁にぶつかることがある。ずっと続けていれば、必ず、そういうことにぶつかる。その時に、自分がどのような態度で制作に向かうか、作品の質とはそういうところにあるのではないだろうか。
ああ、めんどくさい、とか、辛い、とかで、やめてしまうようならば、それだけでしかない。
写真をやっている人には、そういう、根気がない人もいる。
それで、コロコロとやることや、撮ることを変える。
言っていることも変わる。
そういうのは、ウンザリだ。
そういう人には、何を言っても仕方があるまい。

僕は、自分に、言い訳を出来るだけしない、と言い聞かせている。
言い訳をして、失敗を他のせいにしないように、気をつけている。
言い訳は潔くないし、醜い。
これは、僕のただの美意識だろう。

仕事に関して、僕は偉そうなことを言えないし、言うつもりもない。
作品に関しては、自分がやってきた範囲で、言えるだろうな、と思うことを言っているのだが、もはや、あまり他人に言うこともなくなってきたようだ。
多分、多くの人は、二年ぐらいかけて、四万枚ぐらいの写真を一貫して、定期的に撮り続けることが出来ない。
相手が出来ないであろうことを言っても仕方がない。

作品を制作するのは、自分との戦いでしかない。
そこに被害者も加害者もいない。
ただ、作り続けるしかない。
作り終えたら、そういうことが実感として感じられると思うのだが、それは、僕が作り終えたから分かることで、それは、作り終えないと分からない。

人はまず、答えをもって、制作に取り掛かる。しかし、その答えというものは、だいたい、下らないものでしかない。
自分がいかに下らない人間であるか、身を持って知るのが、制作行為の一面である。
自分がいかに至らない人間であるか、自分の作品が教えてくれる。
それと向き合わなければ、制作を持続させることは難しいのではないだろうか。
自惚れは、制作において、邪魔でしかない。
そんなものよりかは、信頼出来る他人の意見をよく聞き、パッションに従う方がいい。
下らない優越感を満たす為に作品を制作するのならば、それは、作品そのものを穢す。
写真なんてものは、押せば写るのだから、ただ無心になって、写していればいいのだ。

ただの花であっても、その声を聞けば、いろいろなことが感じられる。
そこに答えがある。
否、そこに存在がある。
それは実に雄弁で寡黙なものだ。
作品なんてものは、ただ、それを伝えようと務めていればいいのではないだろうか。