音楽報告

音楽報告

あいもかわらず音楽を楽しんでいる。
昨夜は、iPhoneカオシレーターのみで演奏したものを2曲、サウンドクラウドにアップした。
今回は、テクノとダブステップを意識して、演奏してみた。
ダブステップというのは、よくわからないのだが、サウンドクラウドで他人の曲を聞いていて、タグに、DUBSTEPとか書いてあるので、こういうのがダブステップというものなのかな、と思って、音色選択で、似たような感じのものをチョイスして、音を重ねてみた。
また、どうも僕は演奏していてはしゃいでしまい、音を重ねすぎてしまうところがあるので、今回は、抑えめに、シンプルにするように意識している。

というようなこともあってか、今回は、今までよりも、様になってきたように感じられる。

昨夜、アップし終わって、スピーカーで曲を聞き直していたら、ものすごい昂揚感がやってきて、頭がグルグルして、酩酊に襲われた。
あ、これはやばい、と思って、曲を停止して、テレビゲームを少しして、寝た。
僕は、お酒をあまり飲まないし(一人ではまず飲まない)、ドラッグもやらない。演奏して、その演奏を聞き直しているだけで、ドバーッとアドレナリンが放出して、目の前がグルグルして、重力があちこちの方向からやってきて、解き放たれるように感じられる時がある。

僕の曲を誰かが褒めてくれたり、評価してくれることは、幸いなことで、心嬉しく思っているが、昨夜のあの昂揚、酩酊は、他者の評価ではなく、個人的な体験であり、作用である。
表現には、内的な楽しみ、充実感がなくてはいけない。
楽しいばかりではないけれど、何をするよりも楽しい、と感じられる時があって、それは、何物にも代え難い。
僕の場合、音楽演奏は、何者かになりたくてやっているわけではなく、ただ、楽しいからやっているに過ぎない。
音に耳を傾ける、それが楽しいのだ。

以前、誰かの散文で、無知なる人に対する批判者に対する批判という趣旨だったと思うが、様々な音楽を聞き、レコード店でCDを漁り、民族音楽まで聞いている自分と、そうではない人を比較して、書いているものがあったのを、記憶している。
その当時は、僕は音楽にさほどの興味がなかったので、ふーん、と読んだのだが、今となって思うことは、何たる浅はかな姿勢なのだ、ということで、音楽とは、まず何よりも、自分の耳で音を聞くことが重要なのである。
あれを知っている、これも知っている、などと他人に言うことが、分かっている、ということではない。ただ、それは、知っているに過ぎない。
乱読することが無駄だとは思わないけれど、熟読することはより身に沁みる体験になるように、音楽とは、強烈な体験である。

先日、友人と夜中、スカイプで話していた。
近頃、友人には、気掛かりなことがあるようで、また、調子もよくはなかったので、僕の方が、あれこれと喋って、四時間ほどしたら、友人に電話がかかってきたので、そのままお別れを告げた。
だいたい、この友人と話すことは、音楽のことが多く、たまに写真や詩のことを話している。
途中で話が終わってしまったので、少し、ここでその続きを認めようかと思う。

僕は近頃、いっそう、他人の作品の良し悪しに興味が薄れていて、あまり他人に言うことがなくなってきた。
写真に関しては、特にそうで、どんな写真を見ても、だいたいは、いいんじゃないかな、と思う。
細かいことを言っても仕方がないし、写真を楽しんでいる、楽しもうとしているのが、見ていて感じられたのなら、それで十分なのだ。

数年前の僕、いや、数ヶ月前までの僕ならば、口悪く、他人の作品のことを、あーだこーだと批判していることだろう。
今年に入って、他人の作品に関して、甘くなってきたかな、という気がしている。
本人から直接聞かれれば、あれこれと話すだろうけど、聞かれもしないことを述べる必要はあるまい。
自分で分かっていれば、それでいいのではないだろうか。

最近、僕が写真のことをあまり言葉にしなくなったのは、言われた方は、そうだな、と言うか、ポカーンとするか、ほとんどの反応は二つしかないように感じられるからで、話の広げようがないのと、とてもシンプルな考え、姿勢しか僕は持っていないので、分かり切ったことを言葉にするのは、僕自身はあまり興奮しない、という理由がある。
知的探究心、それが興奮につながる。
僕は今のところ、写真の概念に関しては、迷っていない。
写真とはもののあわれである、の一言で十分なのである。

今、この文章を書きながら、先月撮影した写真をプリントしている。
先月は調子が良かったようで、なかなかな写真が撮れたかな。
20枚以上プリントする予定なので、まだまだ時間がかかりそうである。
のんびり文章を打ち込みながら、プリント作業をすることにしよう。

写真サイト、数日前に更新したのだが、こちらも、今までよりもいい出来かな、と思う。
トップページ、音楽との兼ね合いも上手くいったかな。

先日のスカイプの続きを書く前に(今までの文章は、流れを作るために、スカイプで友人に話したことを思い出して書いている)、友人の音楽について、ちょっと伝えておきたいことがある。
友人は、4980円のカオシレーターを買おうか、迷っているようなのだが、僕の見方では、カオシレーターは友人には向かないのではないだろうか。
これは、音楽性の問題で、友人の今までの曲を聞いて、僕が感じていることは、シンセサイザーの電子の音色を合わせることが難しそうだからである。
友人には、スカイプで、ギターリストとして、ギターを中心に演奏をしていった方がいいんじゃないか、と伝えてある。
今日、友人の新曲の、その名も、ギター、という曲名のインストゥルメンタルを何度か聞いてみて、友人がこの次に進むのであれば、iPhoneGarageBandを購入してダウンロードして、曲作りをした方が有意義なのではないか、と感じた。
先ほど、洗濯物を干す前に、iTunesで、GarageBandのレビューを100以上、目を通して、こちらの方が、カオシレーターを購入するよりも、友人には相応しい気がしている。
その理由を、箇条書きでまず述べてみよう。

カオシレーターは4980円、GarageBandのアプリは450円で、値段は十分の一以下、お買い得。煙草一箱ぐらいか。

GarageBandを使えば、ギターとiPhoneを繋いで、ギター演奏を直接取り込むことが出来る。別の装置が必要なようだが、装置がなくても、iPhoneのマイクで演奏を録音して、GarageBandで編集することも出来る。いくつかのアンプ、エフェクターをアプリ内で選択して用いることが出来る。

・ドラムやピアノ、シンセサイザーGarageBandで演奏したり、打ち込んだりして、シーケンサーを作成出来る。音質がいいのか、僕では分からないが、レビューを読むと、決して悪くはないようだ。音色は多くはないようだが、必要最低限の楽器、音色はあるだろう。

・8トラックを用いて、曲を編集できる。8トラックは、多くはないだろうが、まずはこれぐらいのトラック数があれば事は足りるだろう。

・操作が簡単なようだ。専門的な知識がなくても、慣れれば扱えるようだし、敷居は高くない。つまり、煩雑ではない、ということ。

とりあえず、僕が思いついたのは、この5点。
レビューを読むと、ギターをやる人なら、GarageBandはいいアプリのようである。
GarageBandの欠点は、どうやら、動作が重たいらしく、突然アプリが落ちたりする不具合があるようだ。
詳しいことは、自分で調べてみれば間違いないだろう。

僕の場合は、何故だか知らないが、テクノの方角で、音楽演奏をやるようになって、YMOよりかは、クラフトワークの方に近いように感じている。
ギターやドラムの演奏と、シンセサイザーの演奏を組み合わせるよりかは、シンセや電子キーボードで演奏して、サウンドクラウドにアップする方に進んでいる。
これは、僕が、楽器演奏が出来ないからではあるのだが、それだけではなく、電子音楽の匿名性に惹かれているからかも知れない。

現在、クラフトワークは、Wikipediaで読んだところ、メンバー達がそれぞれ、テーブルの上にノートパソコンを置いて、DAWソフトを用いてライブを行っているようである。
YMOは、坂本さんが主にシンセサイザーの演奏を担当して、細野さんと高橋さんはベースとドラムの生演奏をライブでは披露し、また、小山田さんなどのサポートメンバーも、主にギターなどでの生演奏をしている。
電子音楽と楽器での生演奏での融合、という方向にYMOは進んでいるようである。

僕は現在、四つの楽器を用いた演奏をiPhoneで録音して、そのままサウンドクラウドにアップする方法と、iPhoneカオシレーターのアプリを用いて、iPhoneのシンセのアプリの音色やリズムをオーディオコピー&ペーストして、カオシレーターでリアルタイムに演奏したものをそのままサウンドクラウドにアップする方法の、2つのやり方で演奏をしている。
この2つの方法を用いた演奏をDAWソフトを組み合わせようと考えていないのは、それをすると煩雑になるのが分っているからである。

演奏したものをあとで編集することをすると、疲れちゃうだろうな、と。
僕は、曲の完成度を高めることを第一の目標にしていないので、即興で、ライブ感覚で、一発撮りでやることが向いているようだし、それで十分、楽しんでいるので、今のところは、それ以上のことをするつもりはない。
それに、二つの方法は、それぞれ、特色があり、それが演奏にダイレクトに反映されるので、とりあえず、それぞれのやり方で楽しく、また、新しい試みを試していければいいかな、と思っている。
一粒よりかは二粒あった方が楽しいかな、ぐらいの気持ちでいる。

友人の場合は、ギターは、同時にギターしか演奏出来ないので、他の演奏や音を組み合わせるには、編集するしか方法がない。
僕が危惧し、友人も危惧していることは、後々の編集作業で訳がわからなくなって、頭が混乱してしまうことなのだが、ここから先へ曲作りを進めたいのなら、編集作業は必須のように思われる。
それか、ギターとボーカルの一発撮りという、シンプルなやり方を極めていくか。
それはそれできっと煮詰まるだろうから、ここはGarageBandを投入してみるのは、最良の一手のように感じられるが、どうだろうか?
GarageBandを用いれば、音楽的に、今までよりもかなり、いろいろなことが出来るようになるだろう。

さて、スカイプの続きである。
考えるに、我々にとって、よくない作品を作る作者というものは、型にはまってしまっていて、自分の目で、耳で、頭を信じていない、というのがまずあるような気がする。
また、作品の量が少ないのは(文章が短かったり)、集中力が続かないか、根気が足りないかのどちらかなのではないだろうか。
そして、最大の悲劇は、そういう作者はどうやら、創作行為に伴う充実感、幸福感、酩酊感などがあまりないように感じられることである。

別に、いい作品を創作することが全てではない。
僕は、良いか悪いかなどというものに、それほどこだわりたいとは思っていない。
なので、そういう作者の作品の細かいところまで読み込んで、批評したり、批判したい気持ちは、すでにほとんどないと思われる。
彼らは、きっと、僕よりも真面目な人達だろう。
僕なんかは、写真なんて押せば写るし、キーボードなんて鍵盤を押せば音が出る、とよく口にするような、不真面目な人間である。
そこに、何の悩みもない。
撮れるものは撮れるし、音が出るものは出る、そういう事実があるのだから、それでいいや、なんて考えている、不誠実な、創作上の秘密などに目を向けない、奥が浅い人間であろう。

出来上がった作品が良いか悪いかはともかく、やっていて自己満足するところがなければ、創作とは、ただの苦行である。
ただの苦行を支えるとするならば、自己犠牲の意識と、使命感であろう。
創作上の秘密なんてもののだいたいは、この二つなのではないか、と僕は考えているのだが、それが正しいのかは分からないし、そんなものは、誰しもが持てるものではない。

従って、他人がどうこう言って、解消される問題ではなく、もし解決策があるとするならば、作者自身の意識を自分で変革し、覚悟を決めるしかあるまい。
それは、その人自身の、内的な、個人的な問題であって、他人がグダグダと述べることではないような気がしている。
見る側の努力があるとするならば、限られた狭い自分の価値観だけで作品の価値を決めつけず、広い視野でもって、目の前の作品のいいところを発見し、感じることではないだろうか。
良いところを発見できず、感じることが出来ないならば、本人から直接聞かれない限りは、沈黙を守るのがいいように感じられる。

僕は、そういう作者や作品をバカにしたいとは思っていない。
ただ、創作の充実感、幸福感などを味わえず、悩んでいる姿を目にすると、心が痛むのは確かだ。