こんばんは。

こんばんは。

今夜、2曲を演奏・録音して、サウンドクラウドにアップした。
この文章を、メールで送るか、ブログにアップするか、迷ったが、メールで送ると、ついつい口が滑るといけないので、公開しているブログにアップすることに決めた。

かれこれ、音楽を始めて、半年ほどになる。
僕が音楽を始めたのは、貴方に写真を教えるにあたり、自分でも新しい、不得意なことを始めなければ、対等の立場で物を考え、言葉を発することが出来ないのではないか、と考えたからである。
写真でならば、僕は十年以上、やり続けているので、どうしても、写真に無知な貴方に対して、上から目線になってしまう。
それに、初心者ではない僕では、写真の初心者の気持ちが計り知れない、ということもあった。

貴方はどこに躓いて、写真を撮るのがしんどくなったのか、ずっと考えていた。
あれこれと考えて、どうもこういう理由なんじゃないか、と思い当たるところがあるので、そのことをまず、簡単に述べていく。

僕と貴方の性格の違いは、まず、僕は出しゃばりな人間で、貴方は引っ込み思案な人間なのではないか、と。
出しゃばりだから、自己主張ばかりしていて、我が強く、他人と衝突しやすい。
引っ込み思案な性格の場合、自己主張がなかなか出来なくて、我慢を強いられることが多々あるかと思う。
これは、どちらがいいかということではなく、出しゃばりな人間は、自己を抑圧していることにそれほど自覚的ではない、その代わり、出しゃばりだからこそ、協調性がなく、チームプレイが苦手なのかも知れない。
引っ込み思案な人は、目立たない。目立った方がいい場合と、目立たない方がいい場合がある。
特に女性の場合、控え目な方が、男性のウケがいいだろう。
まぁ、一長一短、物事の全てには、表と裏があって、性格というのはなかなか変わらないものだから、あれこれと考えて悩んでも仕方あるまい。

もう一点は、表現をすることに、飽きやすいか、飽きにくいか、そういうことがあるかと思われる。
僕は、音楽をやっていて、面白く、楽しい。
すっかり、ハマってしまっている。
ハマるかどうかは、人によって異なる。
写真は押せば誰でも撮れるものだが、それを言えば、音楽だとて、鍵盤を押せば誰でも音を出すことが出来る。
カメラだとて、電子キーボードだとて、道具であることに変わりはない。
その道具をどのように使い、どのように表現するか、ここに表現の妙味がある。
どのように使い、どのように表現するか、これは、簡単なようでいて、なかなか容易ではない。
何故なら、自分で考えて、自分で道具を用いて、実践するしかないからである。

音楽というのは奥が深い。
奥が深い、というのは、それだけ、幅がある、ということでもある。
幅がある、ということは、その分だけ自由だということだ。
音楽は、無音から音を発するところから始まり、無音で終わる。
ゼロから音を組み合わせて、ゼロに帰っていく、ということである。
ここが、写真とは異なる。
写真は、目の前のものを、写し撮るものだから。
目の前のものをコントロールすることはあっても、ゼロから作り上げるのでない、特に、スナップフォトの場合は。

ここでの一旦の結論は、引っ込み思案で飽き性の人は、表現には向かない、というものである。
多くの人は表現をしなければ生きていけないものではない。
表現をすることが楽しく、また、必要だから、表現をしているに過ぎないのかも知れない。

写真というのは、わざわざ目の前のものを写し撮る点が、めんどくさいと言えばめんどくさい。
写真に残さなくても、自分の目で見ればいいだけのことではあるだろう。
音楽だとて、鼻歌で十分なのかも知れない。
わざわざ録音して、サウンドクラウドにアップする必要はないだろう。
そう考えてみると、僕は、残したい人間で、貴方は消えていくものに心を焦がす人間なのかも知れない。
消えていく儚さというものはある。
この儚さに胸をときめかせる性分なのかも知れない。

僕は、下手くそなピアノ(電子キーボード)の演奏を、二ヶ月ぐらい、ほぼ毎日、サウンドクラウドにアップした。
これは、必要なことではあるのだが、恥をかくのが耐えられない人もいることだろう。
表現を発表することは、いつだって、恥を晒すことに他ならない。
生きることは、すでにして、恥そのものではある。
表現をすることは、恥の上塗り、という一面もある。
だから、表現を続けるには、開き直る必要があるのだ。
覚悟とは、開き直ることである。
構わぬ、という決意である。

あと、僕はどうやら、自惚れ屋のようだ。
シンセで演奏した自分の演奏を、サウンドクラウドで聞き直して、いいなぁ、と思う時がある。
こないだアップした、カオシレーターの曲を流していて、え、これ、誰の演奏? とさきほど、驚いたぐらい。
近頃はようやく、ちょっとはまともな演奏を出来るようにはなってきたようである。

自惚れることも、一つの、大きな才能である。
自惚れがなければ、表現をしていて、充実感がない。
充実感がなければ、ただ、恥の上塗りで、この恥の意識にさいなわれ、辛いばかりだろう。
これは、一種の、自己愛であり、自助行為だとも言えるかも知れない。
あまり聞かないのだが、表現とはまず、自助行為なのである。

ただ、貴方の恋人が、僕のシンセの演奏を聞いて、いつも褒めてくれるので、それほど酷いものではないらしい。
褒めてくれる仲の良い人がいることは、励みになるし、音楽の話に興じるのは、楽しいことだ。
僕は自惚れ屋だが、自分の演奏がそれほどいいとは思っていない。
いい筈がない、と思ってしまう。
だって、僕は、音楽を始めて半年しか経っていないし、僕と同じ機材を手にすれば、誰だって、慣れれば演奏できると思うから。
僕の持っているシンセは、それほど音楽知識がなくても、つまり、子供でも、奏でることが出来る。
シンセの演奏には、慣れが必要だけど、そんなものは、やっていれば分かるものだ。
ああ、あれだね、小学校の音楽の授業で、シンセサイザーを教えてもいいんじゃないか、と思うよ。
本格的なものではなく、カオシレーターとか。
iPadカオシレーターのアプリさえあればいいんだから。
生徒はみんな、教室で、ヘッドホンをして、演奏していて、そのまま、サウンドクラウドのアカウントを作って、演奏を各自でアップすればいいんじゃないかな。
それで、三分ぐらいの曲を自作して、スピーカーにつないで、発表し合えばいいし、放課後、興味があったら、クラスメイトの演奏をネットでチェックしてもいい。
音楽というのは、他人と一緒に演奏するだけのものではない。
カリンバという楽器がそうであるように、自分一人でこっそりと楽しんでもいいわけだ。
そういう音楽の在り方を、小学生ぐらいの時期に、教えておくことは、悪いことではないような気がする。

そういうのはいささか孤独すぎる、と思うのであれば、30秒ぐらいのパターンを生徒の一人一人がカオシレーターで作って、他の生徒の作ったパターンと一緒に再生してみたら面白そうだ。
こういう試みは、インターネットを利用して、坂本龍一岩井俊雄のライブパフォーマンスで行われたのだけど、一人、一つの音色を選んで、作り終わったら、三人とか四人のループを合わせてみる。
そういう、偶然、生み出された音楽というのも面白い。
ああ、音楽って面白いな、音の組み合わせって不思議だな、と純粋な興味を引き出すのは、立派な教育だろう。
リコーダーや鍵盤ハーモニカでの演奏だけが音楽ではない。
僕は今だに、ハ長調とかぜんぜん分からない。
分からなくても、音楽を楽しむことは出来る。

写真も同じだ。
仕組みなどほとんど知らなくても、撮ることは出来る。
それで、写真を楽しんでいる愛好家はたくさんいる。
しかし、写真は、小学生に、教えることは難しいだろう。
せめて、中学三年生か、高校生ぐらいの知的認識がなければ、写真を理解することは難しいように感じられる。
写真とは、世界を知り、他人を知り、関係性でもって写すものだから。
見るという奥深さは、見られることの奥深さに通じる。
簡単にいえば、写真とは、撮る側の人生経験を反映する。
そこいらの子供では、人生経験をこれから積み重ねていくものだから、はっきり言って、写真を学ぶ意味などない。
別に子供を馬鹿にしているわけではなく、写真とは大人がするものなのである。

このように考えられるかも知れない。
赤ん坊は、見るよりもまず、聞くことから始める。
周りの音を聞いて、状況を察したり、テレビから流れる音に反応したり。
そうやって、世界を知っていく。
音というのは、遡って考えていくと、赤ん坊の記憶まで辿れるかも知れない。
音の認識と、視覚の認識は異なる。
音は、赤ん坊でも楽しむことが出来る。
写真よりかは、絵本をまず見せるように、より単純化した色と造形の方が、幼児には相応しいのだろう。
写真は、世間で通常考えられているよりも、かなり複雑な表現手段である。

貴方は、音楽に関しては、僕なんかよりも詳しいし、ドラムやベースの演奏も出来るのだから、やるということがどういうことか、分からないわけではないでしょう。
音楽が奥深いものだ、ということぐらい、他人に言われなくても、知っているだろうし。
貴方がくれたスティーリー・ダンのアルバムを聞いていたら、寒気がしてきて、あれ、部屋が寒いのかな、と思ったのだけど、そうではなく、僕の肉体がスティーリー・ダンの曲に反応して、ビックリしたみたい。
あの完璧な曲に、僕の肉体が拒絶しているのか、背筋がずっとゾゾゾとなっていた。
あれは、恐ろしいものだね。
恐ろしい音楽だし、奥が深い。
こういうのは、宮沢賢治の作品でも、あるね。
もう、恐くて仕方がない。
あれを音楽というのなら、音楽とは恐ろしいものだ。

僕は勘違いしてきたのだが、写真というのは、あれは、複雑なものだね。
あんなもの、押せば誰でも撮れる、と思っていたのだけど、押せば誰でも撮れるからこそ、難しいものでもある。
写真は難しい。
音楽がいいんじゃないかな。
うん、音楽がいいかも知れない。
音と音のつながりや、音の広がりは、写真に通じるところがあるし。
僕はあれだね、楽しく演奏しているから。
シンセだったら、一人でやれるし。
音楽は楽しいものだね。

今夜演奏してアップしたチューニングとコールという曲は、それぞれ、二つの楽器を、一つのスピーカーにつないで音を出して、iPhoneで録音して、そのままサウンドクラウドにアップした。
チューニングはカオシレーターとSA-46というCASIOの電子キーボード、コールはカオシレーターDS-10で。
今回はシンプルに演奏してみた。

カオシレーターだけで、試用も含めて演奏した5曲、我ながらいいね。
聞き直して、音の良さにびっくりしている。
これ、カオシレーターだけでもいいぐらいだな。
同時にいくつもの楽器を演奏すると、手が二つしかないから、どうしても不具合が出てくるし、集中力も分散されてしまう。
カオシレーターだけの演奏は、カオシレーターしか弄っていないから、聞き直してみると、統一感がある。
それに、カオシレーターは本当に優れたシンセサイザーだな、というのが分かった。
カオシレーターとスピーカーだけあれば、誰でもこれぐらいの演奏は出来てしまうだろうから、すごいなぁ、と思う。

あれだね、カオシレーターは4980円でAmazonで買えるし、スピーカーは2000円ぐらいのUSB接続で充電される小さいけど音がすこぶるいいらしいものを見つけてね、スピーカー、近いうちに注文すると思う(楽器を4台同時で演奏する場合、スピーカーが一つ足りないので)、7000円あればいいわけだ。あとは、録音する装置がいるけど、それはiPhoneとか、スマホのアプリを使えば事足りそうだし。
アンプがあるなら、プラグ変換のものを買えば、スピーカーはいらないし。

とある人の演奏がネットにアップしていて、聞いてみると、音がよくない。
音がよくない、というのは、音が濁っていて、クリアーではない、ということね。
多分、パソコンの無料のシンセのソフトで曲を作っていると思うのだけど、音がよくないから、カオシレーターとスピーカーを買って録音すればいいのに、と心の中で思っているの。
で、CASIOの電子キーボードがAmazonで3000円でしょ。
1万円あれば、揃っちゃう。
iPhoneカオシレーターのアプリだったら、1700円でいいわけで、あまりお金をかけずに演奏を楽しめて、サウンドクラウドにアップ出来てしまう。
そりゃ、機材にお金をかければ、それだけもっと音がよくなるだろうし、サウンドクラウドにアップされている他人の曲の音はいいものが多いね。
まぁ、こういうのは、どこで満足するか、という話だから。
音が悪いな、と僕が思っていても、本人が気にしていないなら、それで構わないわけだし、僕の曲だって、プロに比べれば、つまり、スタジオ録音とかに比べたら、音はよくないわけで。
でも、iPhoneカオシレーターからそのままアップしたものは、すこぶる音がいいね。さすがKORGという感じ。iPhoneもいい道具だね。

チューニングという曲は、電子キーボードのストリングスの音色で、主にCのメジャーの音と、カオシレーターで電源を入れたらまず選択されるL00という音色の二つの音色だけで演奏している。
このシンプルさもいいな、と思っている。

わぁいいなぁ、というのがあるでしょ。
僕はお目出度い人間だろうけど、こうやって、演奏をして、録音して、聞き直して、充足感がある。
パソコンとかで曲を弄らないのは、そのままでもいいや、というのがあるからで、それは、写真と同じだね。
あと、カオシレーターとかは、ループ作成のシンセで、やっていると、ミニマムミュージックになっていく。
近頃は、ミニマムを意識しつつある。
ミニマムミュージックを僕はほとんど聞いてこなかった人間で、イマイチよくわからないけど、そういう感じにはなってきていて、ミニマムというのは、匿名性のものでしょ。
そういうのも、写真に通じるところがある。
写真は匿名性のものだからね。

わぁいいなぁ、楽しいなぁ、というのは、人によって異なるから。
僕は、こうやって一人で音楽をやるのが楽しい。
それに、考えてみると、音楽は自分で調べたり、工夫してやっているのであって、誰かに教えてもらったわけではない。
キーボードは、教えて欲しいなぁ、と思っていたのだけど、相手が忙しくて教えてもらえなさそうだから、ネットで調べて、コードを自分で弾けるようにした。
音楽をやる充足感というのは、今のところ、何物にもかえがたいかな。