文章を書きたくないような、書きたいような。

文章を書きたくないような、書きたいような。

そんな気分である。

あれこれとブログで書くことを何となく考えていて、書くことがないわけではないのだけど、実際に文章にするとなると、もどかしいような、めんどくさいような、気持ちになる。

カオシレーターが手元に届いて、今日の昼前に、演奏して、5曲をサウンドクラウドにアップした。
こういう使い方なんだな、とそれとなくわかった。
カオシレーターだけで演奏するのではなく、他のシンセや楽器と組み合わせて使う方が効果的なようである。

音楽を始めて、半年ほどになろうか。
今までは、何となく、続けてきたのだけど、半年の経験が積まれて、もっといい演奏がしたい、という欲が強くなってきている。
この欲が、辛くもある。
昨日よりもいい演奏を、いい曲を、と、これ自体は前向きな気持ちなのだが、そうやすやすと、昨日の自分を越えられるわけではない。
しばらくは、辛い中で、楽しく、音楽をやっていくことになりそうである。

サウンドクラウドでアップされた他人の曲を、アップされた順に、何度か聞いて、いいなぁ、とか、おー、と思ったものに、ライク(ハートマークのボタン)を押していたら、僕をフォローしてくれる人が何人かいて、数人を除いて、こちらも相手をフォローしてみた。
フォローする相手を選んだのは、フォローすると、相手のアップした新曲がストリームに現れるからで、ストリームとは、Twitterみたいなものなのだが、無闇矢鱈にフォローすると、煩雑になって、せっかくフォローしたのに、相手の曲をあまり聞けない状態になってしまう可能性が大きいからだ。
フォローしたのは、シンセを使った曲、曲を聞いていて、どこか、尊敬出来る人を選んでいる。

サウンドクラウドで他人の曲を聞いていると、レベルの高さに驚かされる。
音がいい。
また、様々なジャンル、様々な音の組み合わせがあることが実際に分かる。
また、世界中の人々と、音楽でつながっているような感覚は、心地いい。
インスタグラムでも、そのような感覚を、写真で味わえるかと期待していたのだが、これは僕が悪いのか、あまり、そういう感覚は味わえていない。
これは、僕が一応、プロのカメラマンだからかも知れないし、写真に関して、神経質で、狭い価値観を有しているからかも知れない。
音楽は、どのようなものであっても、ほぅって、感心させられることが多い。
これは、単純に、僕が音楽に関して無知だからであって、僕は、そういう意味では、音楽に対して、寛容なのかも知れない。
それに、今は、好き嫌いで音楽を聞いていない。
好きか嫌いかではなく、音そのもの、音と音の組み合わせ方、曲の流れ、構成などに興味を持っている。

サウンドクラウドにアップされている世界中の人たちの曲は、今の僕からすると、レベルが高いものが多い。
こういうものを、自分の耳に、自分の体に流し込む。
そうやっていれば、そうやらないよりかは、自分の演奏に、多様性が生まれるのではないだろうか。
また、ずっと他人の演奏や曲を聞いていると、僕だったらこうするな、とか、どこか、物足りなさが自分の心に生じる時がやって来る。
そうなって、ようやく、自分で演奏をする意味や意義、価値が生まれるのではないだろうか。
そうでなければ、わざわざ、自分で演奏する必要はないのだから。
これは、上手い下手、よりかは、純粋なる音楽性に関わることで、僕なんかは、機材も貧弱だし、技術もないし、知識さえない。
サウンドクラウドにアップしている人たちの方が、音楽の全般的な技術や経験が多いのは、まざまざと分かる。
こいつは下手だな、ということではなく、自分だったらこういう風に演奏するのに、こういう風に音を置いて、流れをこうするのに、という風に、ついつい、感じてしまうことがあって、そうなれば、言葉よりも前に、自分で演奏してしまえばいいだけのことなのだ。

Twitterで知ったのだが、現代詩フォーラムで批評祭をやっていて、久しぶりに散文コーナーを見てみた。
アップされている他人の散文をいくつか読んで、ウンザリしてしまった。
もう、あーだこーだ、と述べること自体に、僕は嫌気が差しているようである。
だから、文章を書くこと自体が、めんどくさいな、というような気持ちになっている。
音楽というものは言葉ではなく、まずは音であり、そして、音楽は、言葉の壁を超えて、世界中の人々に伝えることも出来る。
世界中の無名の人々の曲を聞いて、感心したり、尊敬したり、ガッカリしたり、何らかの感情、感覚が自分の心に生じる。
あーだこーだ、と言葉を綴るのであれば、シンセやキーボード、楽器でもって、音を奏でた方がいい。
そちらの方が、今の僕には清々とする。

僕にとって音楽とは、不快なものではないし、不快なものを他人に伝えようとも考えていない。
不快さも含めた、快感、心地よさのようなものを音に出来たらいいな、と思っている。
サウンドクラウドで、たまに、中指を立てている写真が使われていたり、曲の中で、ファック、とか、そういう言葉が出てきたりすると、ちょっと嫌な気持ちになる。
僕自身は、そういうことではなく、楽しいなぁ、とか、嬉しいなぁ、とか、悲しいなぁ、でもいいのだけど、そういう感情、もののあわれが現れたらいいな、と思っているから。
考え、思想、哲学、ではない。
感情、パッション、エモーション、風景、そういうものを、空気のような、空間のような、そういうものを、音楽で表現できたら素敵だな、と思っている。

知人の、Twitterの文章を読んで、そちらにもいささか、ウンザリしてしまった。
批評祭や、ネット詩について書かれたもので、何ていうか、もういいじゃないか、と僕は思ったし、サウンドクラウドでアップしている人々はそうではないと、今の僕は知っているから。
詩を書いてネットにアップしている人々の中には、著名な詩人の詩などをろくに読まず、つまり、無知なる人が少なからずいる。
それを言うなら、批評祭に参加している人の多くは、批評なるものを意識したことがなく、批評家の著書を読んだことがないだろうな、と読んでいて、強く感じてしまう。
これもまた、とどのつまり、無知なる人である。

音楽の場合、音楽を聞かずに、音楽をやろう、という人は稀有で、だいたいは、純然たる音楽に対しての憧れや尊敬、時に畏怖の念がある。
そして、サウンドクラウドにアップしている世界中の人々の音楽のレベルは決して低くはない。
ほとんどプロじゃないか、と感じることもしばしばで、実際にプロの音楽家もいるかも知れない。
きっと、プロの音楽家もいる(その多くはDJなどだろう)。

サウンドクラウドの他人のプロフィール写真などで、見ていて心が踊るのは、シンセなどの電子楽器が写っている時で、ああ、こんな楽器を使っているんだな、凄いなぁ、と素直に感動し、興味をそそられる。
何せ、僕はそういうことに無知で、シンセの音楽用語や仕組みなども、ろくに知らない、自分が持っている電子キーボードの鍵盤のドレミさえも、つい最近まで知らなかった人間である。
一週間ほど前に、ネットで調べて、メジャーの和音を勉強して、その時に、スケールの仕組みを何となく知って、ドレミが鍵盤のどこにあるのか、分かったのだ。

詩を読まず、詩に感動せず、詩を尊敬せず、詩の奥深さを知らない人の書いた詩が、読んでいるこちらの心に届かないのは、当たり前のことで、これはつまり、書き手のレベルが低いだけのことである。
詩の出来うんぬんの前に、詩に対する、詩を書くことへの意識が低いか、意識がないのである。
意識がないからいい詩が書けないかと言われれば、必ずしもそうではないのだが、言ってしまえば、音楽をやっている人たちの多くは、演奏や曲のレベルはともかく、音楽好きか、音楽に狂っている。

僕は、自分の足りなさを実感している。だから、他人の足りないところを、あれこれと述べる気持ちになれない。
レベルの低い作品は、ただ、レベルが低いのである。
そして、レベルの高い作品は、この世の中に、数多くある。
レベルが低い人は低いなりに、高い人は高いなりに、やっていければいいのであって、まぁいいんじゃないのか、と、思っている。

今回の批評祭の主催者が誰なのか、興味がないので知らないままだが、敷居を低くするというのは、品のいいことではないな、と近頃は強く感じている。
敷居が高いことが素晴らしいとは思わないけど、批評というのは批評であって、エッセイや思いつきや感想ではない。
批評とはこういうものだ、というところからやらなければならないのはしんどいことだろうし、批評とはこういうものだ、ということを外してしまうのは、もっとしんどいことだろう。
僕は、小林秀雄に傾倒している時期があって、今でも、小林秀雄は優れた批評家だと感じているのだが(小林秀雄は日本近代で最初の批評家である)、批評っていいものだな、という思いはずっと変わらずにある。
写真でも、音楽でも、いいなぁ、というのがあって、そういう、いいなぁ、を自分でもやってみたい、残したい、という気持ちがなければ、僕は、自分でやろうとは思わないし、やっていて、続けることはかなわないだろう。
そういうのは、やっていれば、自ずと感じられるもので、自分の足りなさも分かるものである。

芸術表現なるものは、やらなくてもいいものである。
だから、批評だって、書かなくてもいいのであって、書きたい人間が、自発的に書けばいいのではないだろうか。
詩だって、ブログだって、書きたいから書いているのであって、書きたくないのなら、書かなければいいだけのものである(芸能人のブログなどは別だろうけど)。

日本の現代詩というのは、暗喩が重要である。
それはなぜなのか。
世界が暗喩だからである。
詩は世界を表現するもので、世界は暗喩だから、自ずと、暗喩を用いなければならない。
暗喩とは、AはAであって、Bでもある、ということだ。
こんなことは、すでに大昔に、般若心経で書かれている。
別段、現代だけの話ではない。

直喩の場合、AはBである、という方向性が強くて、Aであることよりも、Bであることに目が、意識が行ってしまう。
これは、いわゆる、トリックアートのようなものかも知れない。
そういう意外性や、驚きはあるが、Aという存在を言い表しているとは言い難いのではないだろうか。

批評というのは物差しである。
これは、思想というものがまず物事、世界の歴史や現象を物差しで測るところから出発するからで、しかし、批評は物差しではない。
物差しを超越するところに、優れた批評の凄さがある。
これぐらいの範疇が、批評にはあるのだが、そういうことも知らず、考えず、実感せずに、あーどこーだと言ってみたところでどうなるというのだろう。

物差しなんていう既存の固定観念をぶち壊し、新たな世界の見方を示す、これが批評の枠割である。
相対的な世界観から、絶対的な世界へ。
唯一無二の世界があることを感じさせずに、何が批評なんだ、という思いが僕にはある。
詩人ならば、詩がそれにあたるだろう。

これは、批評だけではなく、ありとあらゆる芸術表現の極限に位置しているだろう。
何も難しい話ではない。
やるのが途方もなく難しいだけなのだ。