今日は忘年会だった。

今日は忘年会だった。

昼間、知り合いの絵描きの個展を見に出かけた。
本当は、疲れていて、ヘトヘトだったので、別日に行きたかったのだけど、個展が最終日だったので、トボトボと鼻歌交じりに自転車を漕いだ。

その絵描きのおじさんとは、その人の個展でお会いして以来、おじさんが個展をやる度に、家にDMが届くので、必ず行く事にしている。
おじさんの個展は、だいたい半年おきぐらいに行われていて、エネルギッシュな人だな、といつも感心する。
それに、このおじさんは、少年の目をしていて、僕が知っている誰よりも、純粋な中年男性である。話していて、面白い。僕は、純粋な人と話しているのが好きだ。

以前、もののあわれの話をして、「人間の建設」を渡したいと思っていたのだけど、タイミングが合わなくて、渡せずじまいだったのを、今日、二人でお茶を飲みながら、会場のギャラリーでゆっくり話せたので、お渡しすることができたのは、よかった。
僕の体調がよくなかったから、じっくりと時間をかけて、この絵描きの人の作品を、目が馴染むまで見て、それから、お茶を用意してくれたので、椅子に座って、ゆっくり話したのだが、まずは、僕が持参した「化身」のアルバムを見てもらうことにした。
そうしたら、前回もそうだったのだけど、絵描きのおじさんは、本当に熱心に、僕の写真を見てくれて、あれこれと質問を言ってくれるので、その質問に応えるのに、あれこれと考えながら、写真のことを話した。
近頃は、よくわからないことが多い。
だから、おじさんと話していて、わからない、とよく言っていたのだが、話しているうちに、少しは、自分の中で整理ができたようだ。

頃合いを見て、今度は、こちらが、個展の感想を述べた。
おじさんは、僕の写真を見て、あれこれとしゃべってくれるのだが、こちらは、言葉少なめに、手短に、出来るだけ、的確に、感想を述べれるように、気を付けながら。

純粋な人の、純粋な作品に、多くの言葉はいらない。
こちらも作品を持ち寄り、あちらも作品を提示している場合は特に。
このおじさんの絵を見て、何を気にして、何がうまくやれていないと作者が感じているのか、目に馴染めば分かる。
あとは、それらを、どのように、作者に伝えるのか。
事実をただ正直に述べればいいというものではない。見る側の事実があるように、作者にとっての事実もある。
おじさんは明らかに僕よりも年配だけど、僕は、作品において、そういうのは気にしないことにしている、特に、相手が真剣で純粋な場合は。
だから、こちらは、何様なんだ、と思われて仕方がないことを、遠慮せずに話すのだけど、向こうの都合は考える必要がある。
前回の個展に比べて、全体的によくなっているし、そういうのを気にしているのも分かる。
全体のバランスをとろうとしていて、それは、前回に比べて、成功しているし、作品自体も、個体差があまりなく、こじんまりとまとまっている。
僕は、ラシックで、以前、インテリアショップに行ったことがあって、そこで売られているインテリア用の絵、イラストに似た印象を受けたので、そのことを話したら、おじさんが、今回は自分の心の中にあるホテルに飾りたい絵を書いてみた、とおっしゃるので、ああ、なるほど、と思った。
その意味では、今回の個展は、作者の思惑に近い風に出来たのだと思う。
ただ、こじんまりとまとまっている、というのは、いいことでもあるし、わるいことでもあって、デザインなのかアートなのか、曖昧なものになってしまいがちにはなる。
こじんまりとまとまっている、というのは、まとまりすぎてしまっている、という意見もあるだろう。
しかし、それは、裏を返せば、破綻がない、破綻を感じさせない、破綻が少ない、というメリットもある。
ここから先は、作者がどうしていくか、どうしたいか、ということであって、見る側の問題ではないし、述べるべきことでもないだろうから、僕は、そこまで意見を述べて、会場を出た。

ただ、僕は、今回の個展は、あんまり文句はない。よい個展だったと思ったし、レベルも決して低くはなかった。こういうレベルの個展は、案外少ない。
だいたいは、よくないな、というところが目立ってしまうものなのだけど、そういうのはなかった。
手作りの、シンプルな木枠もよかった。
とても楽しい一時間を過ごせて、体調も少しよくなった。

会場を出て、自転車で、中古のカメラと楽器を見てから、忘年会に出かけた。

この忘年会は、写真スタジオの忘年会で、以前務めていたカメラマンの先輩方と同席になったので、「化身」のアルバムを見てもらったのだが、場所が場所ということもあり、相手が写真を熱心に見ていないことがよく感じられた。
気に入ってもらえなかったようだ。
帰り際、一番中のいい先輩が、「あれはつまらない」とはっきりと僕に言ったので、一瞬、唖然となったのだが、つまらないものでもあるだろうな、と思って、笑顔で、そうですか、と返しておいた。
話を聞いていると、おもしろい写真もあるけど、撮り手の主張が強いからつまらない、と言っているんだろうな、と思った。
それはその通りなので、つまらない写真ではあるのだけど、そうでもない写真もあることを、僕は確信しているので、まぁ、いいや、と。
そう思っていたら、五年ぐらい前にその先輩を撮影した写真はよかった、というので、はぁ、という感じで、そうか、この人を撮影した写真はよかったとこの先輩は感じているんだな、と思って、こんなことが以前にもあったなぁ、と思って考えてみたら、ゆしらくんの時とほとんど同じ反応ではあった。
ゆしらくんは「化身」をわからないわからない、と言っていて、よくないと思っていることは、僕も知っている。
そして、ゆしらくんとみかちゃんの寝姿を撮った写真は、よかった、と言っていたのであった。
不思議なこともあるもんだなー、と思いながら、帰り道に、ペダルを漕いでいた。

「化身」のアルバムの中には、二人の寝姿の写真もあって、それを含めて、先輩のカメラマンは、つまらない、と結果的に言ったのだけど、撮られた当人は、あの写真(だけ)はよかった、と僕に言っていて、さらには、以前撮影した、先輩がモデルになっている写真はよかった、と、モデルの先輩は言っているわけで、こういうのは、カメラマン冥利に尽きるというものかも知れない。
俺が写っている写真はいい、と言っているのだから、モデルによろこんでもらえればいいのであって、モデルは喜んでいないけど、赤の他人の見る側の評判がよいよりかは、モデルに喜んでもらった方が、僕は嬉しいのだから。

それにしても、僕は「化身」がよくわからない。
だから、いいもわるいも、どちらでもかまわない。
こちらとしては、今までで一番いいポートフォリオになっていると確信しているので、それに対して、よくないと言われても、どうしようもないことだし、なんともしようがない。
そして、僕が押しの強い写真を撮っていることも自覚していて、それも、どうしようもないことではある。
それは、ずっと前からそうで、押しが強いな、とたまに自分で感じるのだけど、こういうのは性分なので、すぐに何とか出来るものではない。
でも、最近は、引きの写真も撮れることがあるので、まぁ、いいかな、とは思っている。
自分がいかほどの写真を撮っているのかは、自分でわからない。
来年の夏に、写真の賞に応募するので、そこで一応の結果は得られるだろうな、とは考えている。

忘年会で同席した保険屋の同年代の男性とは、話がだいたいいつも食い違って、今日も、かなり食い違っていた。
簡単にまとめると、あちらは、「一般」の話をしていて、こちらは、「僕」の話をしているのであった。
今後の人生について聞かれたので、とりあえず来年の夏に賞に応募するのでそれから動こうと考えています、と応えたのだけど、向こうは微妙な顔をしていたので、話を聞いてみると、僕のことを、ダメ人間だと思って、心配してくれていることがわかった。
僕は社会的にダメ人間なので、それはそれでいいのだけど、なんだか説教が始まったので、やめてくれよ、と思った。
僕には僕の人生があるし、あなたにはあなたの人生があるのだから、それでいいじゃないか、と。
向こうは、家庭を持って、子供を産んで育てることを、人生の目標に定めていて、別にそのことに異論はないのだけど、そういうのって、「一般」の話なんだよ。
その「一般」や、自分の主張を、こちらに押し付けられても、困ってしまうわけで、僕は、家庭でも子供でもいい、仕事でもいいし、趣味でもいい、目をキラキラしていられる生き甲斐がその人にあったらそれでいいじゃないですか、と言ったのだけど、向こうはやはり、微妙な顔をしたままだった。
向こうは、社会的に、つまり、金銭的に、成功することが大事なのであって、僕の「化身」はお金にならないじゃないか、とか、僕が営業してこの写真を売ってこようか、と、言ってくるので、ああ、話が合わないな、とはっきりとヘキヘキした。

この保険屋の人はどういう考えでこういうことをのたまっているのだろう、と考えてみると、保険というのは、「一般」を相手に商売をするもので、保険にかけられるものは、いつだって、「一般」であることに気がついた。
つまり、健常なものに保険がかけられるのであって、健常ではないものは、保険の対象にならない、または、対象になりにくい。
例えば、健常者ならば、普通に、生命保険に入れるけど、健常者でない人は、審査で保険の対象から外される。
保険は「健常」である「一般」を対象にしていて、そこから外れる、健常ではないものには、かけることが困難になる。

僕には、一般のことにはさほどの興味がない。
それをいうなら、自分のこととか、あなたのことの方が興味がある。
だからというべきか、僕の写真は押しが強く、自己満足のようによく他人から捉えられてしまうのかも知れない。
僕は別に自己満足だけで写真を撮っているわけではなく、自分がいいな、と思ったこと、感じたことを、出来るだけそのままに撮りたいと願っていて、一般的にどうなのかなんて、どうでもいい。
だから、モデルであるあなたのことを、また、僕のことを写真で撮っているのであって、一般的な評価とか、物差しとか、そういうところでは、極力、作品は撮らないように心がけている。
そして、他人の作品について述べるときも、出来るだけ、相手の物差しに合わせて、述べるように気をつけてはいるつもりでいる。
これは、好き嫌いではなく、当然、自己満足でもない。

さらにここで書いてしまうけど、僕は、健常なるものを、「化身」であえてなるべく撮らないように仕向けてきた。
ただ健常であるものは、健常であるから、一般に、つまり、世間に、
満ちている。そういう満ちているものを、僕がわざわざ作品で撮る必要をまったく感じていなかったからで、最近は、考えが変わって、健常なるものも、健常ではないもの同様に写真で扱ってもいいんじゃないか、と思うようになってきた。
僕の中で、その線引きがどうでもよくなったからで、別に何だって構わないんじゃないか、と思うからだ。
写真は写真である。
ただそれだけでいいのだから。

でも、人やものを撮る時は、「一般」なんてものは、勘定にいれたくはない。
勘定に入れないから、逆に、「一般」でも構わないわけで、僕は、世間なんてものではなく、「個」を見つめていたいし、それを写真に写したいと、今でも願ってはいる。

それにしても、僕は写真が下手だな。
そのことは、身に染みて感じている。