音楽を楽しんでいる。

ここ数ヶ月、調子の悪かったノートパソコンがとうとう壊れて、電源を入れると、エラーを起こし、起動しなくなってしまった。
調べて見ると、背面のネジが一つ取れて、どこかになくなってしまっていた。
故障の原因は、ネジが取れたことなのかも知れない。
僕は、もう一台、Windows XPのノートパソコンがあるので、問題はない。しかし、壊れたのは、まだ動くノートパソコンよりも一回り以上小さなもので、その小ささが気に入っていた。
自宅で仕事などをする時は、大きなパソコンの方がいい。
そう思って、もう一台、ノートパソコンを買って、小さなノートパソコンはもっぱら、趣味用、スカイプiPhoneのバックアップ用に使用していた。
一台だけになってしまったノートパソコンに、スカイプのソフトをダウンロードして、iPhoneのバックアップを作っておいたから、多分、ほとんど支障はない。
新しい時は、そのようにやってくる。

サウンドクラウド、一ヶ月ぐらいの期間にAからZまで、電子キーボードで演奏してものを録音してアップした。
データ容量の関係で、最初の方のが、自動的に削除されてしまっているようだが、もともと、残しておこう、という気持ちも薄いので、古いものからだんだんと消えていくのは、こちらにとっても都合がいい。
ブログなんかも、三ヶ月ほどしたら、消えてしまっても問題はあるまい。
人は記録で生きるのではなく、記憶で生きるのだろうから、頭の中に、残像のように残っていれば、あまり問題がないように思われる。

サウンドクラウドでは、近頃では、DSー10、iPhoneのアプリのカオシレーターで演奏(?)したものを録音して、アップすることも多くなったが、だいたいは、子供の頃から家においてあるCASIOの高級ではない電子キーボードの、ピアノの音色で演奏したものを、録音して、アップしたものが多い。
そもそも、僕が、自分で演奏をしてみようと思ったのは、数年前に、詩の朗読の時の伴奏を自分でしたいと思ったからで、そういう意味では、パフォーマンス用にやりかけていたのか、やっていたのか、オモチャのような楽器を買い求め、カリンバや小さな鉄琴、プレゼントでもらったハーモニカなどがある。
しかし、詩の朗読会に行かなくなり、楽器も、本当に稀に、気が向いた時に、弄るように演奏していただけのことで、それ以上でも、以下でもない状態が続いていた。
僕は、音楽に詳しくないし、どうにも、練習しなければならないものは、怠け者なので、向かないようであった。

改めて、電子キーボードで、ピアノを弾くようになったのは、ある一人の女性との出会いがあったからで、僕は、まじかで、その人の、演奏を聴く、というよりかは、見て、演奏とはこういうものなのか、と、まざまざと見た思いがした。
演奏とはこういうものならば、僕は僕なりに、出来なくはないだろう、と思った、思って、下手くそな自分の演奏をその人に聞かせるのは、恥ずかしいし、申し訳ない気持ちがあったので、ただ、演奏とはこういうものなんだな、とだけ思っていた。

その後、そのような遠慮をする必要がなくなったのと、いてもたってもいられない状態が続いたので、そっと、一人で、家にある楽器を用いて、演奏をするようになった。
演奏するだけでは味気ないので、iPhoneのアプリで、簡単に録音出来るのを知って、自分の拙い演奏を録音するようになった。
気ままに、誰かの為ではなく。

自身の写真サイトのBGMに録音したデータを用いることはあるのだけど。

ゆしらくんが、自分の歌やギター演奏を、サウンドクラウドでアップするようになり、こんなサービスがネットにあるのか、と。
それで、iPhoneに、サウンドクラウドのアプリをダウンロードして、やってみたら、簡単に録音して、ネットにアップ出来たので、これはいいな、と思って、たびたび、演奏して、録音、アップするようになってきて、写真を教えているのか、教えていたのか、現在、どうもはっきりしないけど、みかちゃんに向けて、「あなたの写真なんて僕のピアノの演奏ぐらいのものだろうから、肩の力を抜いてやればいいのに」というメッセージを伝える為に、毎日、電子キーボードでピアノを演奏して、アップするのを日課にすることにしたのだ。
毎日、一曲は即興で、デタラメに演奏し、サウンドクラウドにアップするのだが、ど素人の下手くそ以前の、演奏とは名ばかりのものを、誰も聞くはずはなく、ただ、自分のみっともなさを披露するだけのものにはなっているが、毎日、電子キーボードで演奏するのは、それほど悪いものではない。ど素人だからこそ、どんなに不味くても、誰も何も言わない、何か言われてもそれほど気にはならない、これは、ただの自己満足に過ぎないけど、僕にとって、演奏とは、そういうものでもあるのだから、仕方がないと言えば、仕方がない。
僕にとって、演奏とは、音を出すことで、自分で出した音に耳を傾けて、それらの音を重ねていくことなのだから。
そういう意味では、曲とは言えないものだろう。曲の構成など、ほとんど考えていない。ただ、目の前の音に耳を傾けている。自分なりに、今の自分の心情に近づけるように。ただ、心情というものは、よくわからない、特に、音楽、音と自身の心情というものの関係など、僕にはあまりわからない、わからないまま、わからないなりに、音を連ねているのが、僕の演奏ではある。

かの人との出会いから、僕にとって、音楽、クラシック音楽
の意味合いががらっと変わってしまった。
今までよくわからなかった音楽、ジョイさんとか、そういう洋楽ロック、テクノなどの電子ミュージックを聴いて、いいな、と思えるようになり、僕は今、iPhoneで、小林秀雄講演集「音楽について」に収録されている、レコード盤の古い、クラシック音楽を流しながら、これまたiPhoneと、Bluetoothのキーボードで、この文章を書いている、小林秀雄講演集のCDに収録されているクラシックは、レコード盤の演奏を、当時、小林秀雄が聴いていたのと同様の音をCDで再現する、という趣向で制作されているので、あの、レコード盤の盤面と針のこすれるノイズが、聞こえてくる。
僕は、クラシック音楽は、一種の「教養」の為に、学生時代から、中古などで、安く、手に入れて、気が向いた時に、聞いていた。一応、30枚以上、クラシック音楽のCDアルバムを持っている。
かの人は、僕のその話を聴いて、僕の聞いたクラシック音楽のCDはどこの楽団が演奏しているのか、必ず聴いてきたのだが、ど素人なりに、どこの楽団が優れているのか、何となくは分かるもので、僕がかの人の質問に対して、調べて、答えると、あそこの楽団だったら間違いないね、と言っていたのを思い出す。
クラシック音楽がとても優れたものであることを、僕は知っていた。しかし、僕にとって、クラシック音楽とは、まず何よりも「教養」みたいなもので、僕の心の中に生きてはいなかった、多分。
今の僕の心の中には、クラシック音楽は、他の音楽同様に、「教養」の前に、音楽として、ある。
音楽は音楽だろう。
音楽は音楽で、それは、音楽としか言えないものだ。
かの人の存在は、僕に、音楽とはどういうものかを教えてくれた。
これは、言葉と言葉による会話によってもたされたことよりも、ただ、かの人の存在が、僕の目に、そのことを教えてくれたのであった。
僕の目は、一人の演奏家を、一つの音楽を、その演奏を、捉えたのだ、きっと。
見るとはそういうことで、理屈を飛び越えて、こちらにやってくる。
音楽とは理屈ではない。音楽はいつだって、言葉を飛び越えてやってくる。
音楽に言葉は必要ではない。ただ、口をつむって、耳を傾ければいいのだろう。
音楽はその時々の思いを、環境を、靡かせて、漂っている、やってくる、または、やってこないものだろう。

もともと、何となく興味があったシンセサイザー、興味を具体的に抱くようになってきたのは、中古屋で、中古の楽器を眺めている時に、シンセサイザーが目に入ってきたからだった。
それに、プレイステーションのソフトで、イルカの、簡単に音を組み合わせて、作曲出来るものを、PSPにダウンロードして、作曲を始めたのも大きなきっかけ。
シンセサイザーは、 見た目が何とも言えず、かっこういい。あの、無骨さ、わけのわからないボタンやボッチ。
欲しいなー、と思うようになったのだけど、やはり、ど素人には、いろいろと敷居が高いように感じられて、手が出せないな、と思っていたところに、DS用のソフトで、KORGから、シンセサイザーを再現したソフトがあることを知り、値段も高くはないし、買ってみようかしら、などと夢想するようになったのだが、買ってはみたものの、使いこなせなくて、放置してしまいそうだったので、買わずにいたところ、同じくKORGから、iPhoneのアプリで、カオシレーターがあることを知って、衝動的に、1700円で購入して、ダウンロードしてしまった。
カオシレーターをダウンロードして、演奏をしてみたら、想像していたよりもずっと簡単な操作で、音もよく、これは素晴らしい! と感動して、DSー10をAmazonで注文した、と思っていたのだけど、順序は逆で、よく思い返してみたら、DSー10で演奏したものを、YouTubeで検索して見聞きしているうちに、欲しくなって、Amazonで中古を購入したものの、手元に届くまで、数日必要で、この数日が待ちきれなくて、Amazonで注文したその日のうちに、iPhoneのアプリ、カオシレーターを衝動的に購入してダウンロードしたのだった。
DSー10が届くまでの数日、カシオレーターで演奏、録音していた、このアプリは、サウンドクラウドと連動していて、本当に簡単に、サウンドクラウドにアップ出来るのであった。ああ、これだったらDSー10は買わなくてよかったかな、と思っていたのだけど、実際に手元に届いて、一緒に注文したガイドブックを読みながら弄っているうちに、これはこれでいいものだな、ということを実感した。
DSー10とカオシレーターは違うものだ。
DSー10の面白さは、自分で、音を作り出せるところで、この音が、何とも懐かしい。DSー10はKORGの昔のシンセサイザーをDS用に使いやすく設計し直して、再現しているソフトで、音自体は、昔のKORGシンセサイザーをほとんどそのまま再現しているらしい。
あの、ピコピコ、シャーシャー、いいじゃないか、という気分にさせてくれる。
カオシレーターは、音が本当に素晴らしく、演奏をそのままサウンドクラウドにアップ出来るので、余計な音も入らない。
電子キーボードやDSー10は、演奏しているのを、iPhoneサウンドクラウドのアプリで録音しているので、どうしても音のクリアーさには欠けてしまう。
ただ、僕はど素人なので、音がよすぎてしまうと、違和感がどうしてもある。僕のようなど素人でも、カシオレーターは、けっこうちゃんと、きちんとした演奏なり曲に仕上げてしまえるからで、僕は、それを望んでいるわけではないのだから。

そもそもは、みかちゃんへのメッセージを伝える為に、演奏を毎日するようになったから、写真に置き換えて考えてみると、ピアノは絵で、シンセサイザーはカメラみたいなものかも知れない。
同じ楽器、同じ平面表現でも、それぐらいの違いはある。
絵は、デッサン力などが、つまり、積み重ねた技術がものを言うのに対して、写真は、そういうめんどくさい技術的な努力を、カメラの方で、ほとんど自動的にやってくれる。ピントを合わせたり、露光を決めたり、現在のデジタルカメラならば、誰が撮っても、大きくしくじることなく、それなりには写すことが出来る。
ど素人でも、プロでも、撮ることは出来る。

絵は、ピアノは、そういうわけにはいかない。
ど素人はど素人に、プロはプロに、その表現者に沿ったレベルのものが、ごまかしなく、そこに現れる。そこに現れてしまう、と言った方がふさわしいのかも知れない。
だからこそ、面白い。
僕は、音楽に関して、ど素人である。音楽家ではない。
そして、音楽家ではないからと言って、奏でたり、奏でたものをネットにアップしてはいけない、というわけではない。
そういう慎みだとか、遠慮というものは、世間が勝手に決めているか、自分で決めているだけのことで、他人が何と言おうと、やりたかったらやったらいいだけのことで、また、やりたくなかったらやらなければいいだけのことだろう。

DSー10の、ピコピコ、シャーシャー、といった音を、僕は思いのほか、気に入っているので、これからも、気が向いたら、弄っていくと思われる。
ピアノは、自分で決めたノルマは達成したので、毎日は演奏をしなくなるかも知れないけど、あれはあれでいいものだな、とは思っている。
どちらも、僕には楽しいもので、楽しいから、気が向いたら、やっていけばいいだけのことだ。

僕は、ど素人というものが、それほど嫌いではないし、ど素人なりの楽しみ方は、それはそれでいいものだな、と思っている。