共感について

友人の話つながりになるのだが、以前、友人が、世間で通底している価値観のようなものが分からない、みたいなことを言っていた。
これは、世間では、社会的成功、お金儲けなどを善として、社会的に無益なものに見向きをしない傾向を指しての発言だと僕は捉えているのだが(かなり大雑把な捉え方だが、要約すればそういうことだろうな、と思っている)、当然、この世の中には、いろいろな人がいて、価値観も多様である。
社会とはだいたいが建前で出来ていて、建前はあまり多様性を受け入れないもののようである。

僕は、共感というものがイマイチ分からない。
それは、他者というものを考えた時に、実にさまざまな人がいて、共感というものが、排除とセットになっていることが気になってしまう人間だからである。
共感には、共感出来ない人がいる、というのと、セットになっていて、裏返せば、共感出来ない人との線引きを無自覚にしてしまうことにもつながる。

精神病で考えてみると、精神病を患っていない人達(健全だとされている世間一般の人達)の多くが、精神病を患っている人を、メンヘラだと一括りにしてしまえる。
当然、精神病にもさまざまなものがあり、程度があり、状況があるのだが、そういう細かいところまでは顧みず、メンヘラ、と一言で済ませられる価値観を有している、ということだ。

精神病を患っている苦しみ、病苦というものは、当然、当事者でなければ分からないし、当事者同士の共感というものもあるだろう。
その共感の中には、世間に理解されなかった、という共通の理解、体験がないとは言い切れないだろう。
世間に対して、虐げられ、理解されてこなかった、ということも、彼らの共感を築き上げる大きな要素になっているのではないだろうか、と僕は捉えている。

世間に対して、弱者の立場に追いやられている人同士の共感というものには、そのようなものもあることだろう。

話は飛躍するが、そのような共感もまた、限定されたものであり、共感出来ない人には出来ない類のものであることに変わりはあるまい。

僕は、世間一般にあると感じられる価値観を否定するつもりはない。
そんなものに、肯定も否定も必要なく、ある、という事実があるだけのことだと思っているからである。
なので、共感に関しても、否定するつもりはない。
人生において、共感は大事なものだとも思っている(世間に流通している「当たり前」な価値観も然り)。

友人の友人の詩のリンクが、Twitterのタイムラインで、リツイートという形で流れてきて、たまたま読んでみた。
この詩は、書き手にとって、超自信作のようで、ブログに、そう書いてあった。

詩の出来について、僕は言わないので、内容についてだけ、書いていくけど、この詩は、ゲームセンターを巡る感性、価値観、世界観を表現したものであった。

つまり、かなり個人的な、限定的な、共感がなければ理解出来ないような、少なくても、おじさんとかには理解しにくい内容のように感じられた。

僕は、このような内容の詩を否定してはいない。
ただ、それは、世間一般、というか、ゲーマー一般、というかの違いだけなのではないか、そこには、共感によって成立している、言って見れば、お約束の世界があって、それに則って書かれた詩であることは確かであろう。

東さんの「ゲーム的リアリズム」とは、めちゃくちゃざっくばらんに書いてしまうと、ゲームがなければ成立しない現実感=現実のことを指している、と僕は捉えている。
つまり、ゲームにはシステムがあり、ルールが存在している。
その中でいかようなリアルがあるのか、ということだと、僕は捉えている。

このゲーム的リアリズムを名作にまで昇華させた作品に「シュタインズ・ゲート」がある、と言って、知っている人ならば、多くの人は否定しないであろう。

僕が、ネガティブなことに興味をあまりなくなり、それを表現しようと思わなくなったのは、僕の製作したポートフォリオがあまりに不評だったからである。
このポートフォリオは、確かに現状の僕の苦しみや心の暗さが反映されていたのだが、そんなものに誰も興味を示さなかった、ということが、見る側の反応を見て、痛いほど理解出来たからである。
写真に内面性がない、なんてことはないわけで、僕のポートフォリオは多分、あまりに個人的で、あまりに生々しかったのであろう。

そんなものに誰も興味がないのならば、それは意味のないことだな、と悟って、花や空を、ただ、綺麗に、受け手にとっても、不快ではなく、生理的に作用しない距離感を意識して撮るようになった。
そうしたら、評判が明らかに今までよりもよくなったので、人様が求めている写真はこういうものなんだな、と思うばかりである。

元々、僕は、花を撮るのが好きで、空を撮るのも好きになった。
そこには、何もないからである。
何もない、ということを、僕は写している、と自分では解釈している。
だから、見る人を限定していないし、日本人だけではなく、外国人が見ても、だいたい同じような感じで見られるし、年齢もさほど関係がないようにも、自分では思っている。

写真というものは、実に撮り手のいろいろなものが現れてくる。
実に饒舌なものである。
例えば、カメラ女子というものがいて、彼女らが撮っている写真は、女子的な、言ってみれば、女子による女子のための写真、だと言うことが出来るであろう。
つまり、女子ではない人(現代日本における乙女心を持っていない人)にとっては、自分には馴染みの薄い写真になるだろう。

例えば、鉄道マニアが好む鉄道写真は、だいたい、鉄道に興味のない人には、良さがイマイチ分かり辛いものであるはずなのと同じことのように思う。

そこには、見る側を限定している価値観、世界観が存在していて、その外にいる人達のことは、多分、あまり考えられていないのではないだろうか。
そのような写真は、本当に多く、そうではない写真を見る機会はあまりないぐらいである。

何度も書いているように、そのような限定的なもの、共感を介するものを、僕は否定しているわけではない。
「わたしたち」とはそのようなもので、大衆という「わたしたち」が細分化し、いろいろな「わたしたち」になっただけのことのように思うからである。
そして、多様化した「わたしたち」を僕は問題視していない。
いまさら村社会はムリでしょ、と思うだけである。
細分化し多様化した「わたしたち」という世界(リアル)があって、わたしを取り巻くさまざまな「わたしたち」によって、わたしもまた、多様化し、細分化せざる得ない、というだけのことで、自分という本質がより一層、わけが分からなくなって、あげくには孤独感を強めて、一人で苦しむしかない閉塞感があって、というような。
僕は、そのことも含めて、問題視はしていない。
自分というものを、本当にどうでもいい、と思うことが出来るのならば、他人のことを、どうでもいい、とは思えなくなって、孤独感などくだらないことだということに気づくでしょう、というだけのことだからである。
つまり、それが問題であるならば、自己に執着し、他人に本当の意味で興味を持てないから問題になってしまうのであって、自分の前に他人を置いて、それも、特定の他人ではなく、さまざまな自分を取り巻く他人を置いて、見てみれば、違う世界が見えてくるでしょう、というだけのことなのだ、僕にしてみれば。
それを難しくしているのは僕ではないので、問題視していないのである、無駄なだけだから。

この間、シャガールの絵を見に行った。
一緒に行った人は、絵のことに疎く、大丈夫? と聞いてきたので、音楽を聴くように見ればいいですよ、と言っておいた。
自分は絵のことがわからない、と思っている人は、僕が思っているよりも、多いようである。
絵なんてものは、見ればいいだけのもので、音楽を聴くのと、僕にとっては大差がないことなので。
シャガールの絵は、僕にとっては、ディズニー映画のミュージカルアニメと一緒で、難解な絵だとは思えない。
実際、一緒に行った人は、絵を見た後に、首を傾げたりはしなかった。
理屈でどうこう、という絵ではない、シャガールは。

僕が絵を見るのが好きなのは、そこに「わたしたち」はないからだ。
そのような理解をしたい人は、していればいいのだけど、僕にとっては絵は、ただ、絵であることがいいのであって、絵というのは、見る側を拒みはしない、超一流の絵は全て、見る側を拒みはしない。
もっと言えば、自由に見て、楽しめばいいのである、絵画鑑賞というものは。

ネットというものがこれだけ普及して、ネットビジネス、というものまで出て来て、誰でも手軽に楽しめるようになってきて、それは、スマホの普及に関しても言えることだと思うのだけど、これはつまり、共感を軸にした価値観が強くなってきている、ということではないか、と思う。
空気を読む、いわゆる、KY、というものも、そういう文脈で使われているであろうし、共感によって構築された「わたしたち」は、共感を主軸にしている故に、刹那的でもあるし、エモーショナルでセンチメンタルなものでもある。
これは、教養を縦の軸として考えた時に、共感という横の軸が強くなり、縦の軸が重要視されなくなった、とも言えるであろう。

その結果、古き時代の、正確には、近代における教養を置いてけぼりにさせて、共感による価値観が強くなったのだと、僕は考えている。

僕が共感というものがイマイチ分からないのは、僕の持っている何かに共感する他人というものがよく分からないからかも知れない。
多分、そんなものは、だいたいの人は、分からないのではないだろうか。
共感というのは、分かる分からないではないからである。
空気というものが得体の知れないもののように、共感というものも、どうやら、得体の知れないもののようである。
得体の知れないものであっても、あるということに変わりはない。