ネットビジネスへの提案など

ふと、気が付いたことがあったので、それを。

友人のブログで、自傷行為や自殺未遂は、世間、主に家族からの無理解から行われた、というもので、当然、それだけではないと思うのだが、そのことと、友人が、自分のブログで、有料のポイントを購入して、記事に入れてくれる人がいて、その有料のポイントは、入れられた方には支払われない、ブログを運営している会社に課金されるだけのもので、それだったら、お金を振り込んでもらった方が嬉しい、という話で、僕は、noteというネット上の新しいサービスを紹介したのだが、どうも、やるつもりはないようであった。
noteというのは、文章、画像データ、動画、音楽を有料コンテンツとして、手軽にネットにアップ出来るサービスで、例えば、有料のブログ、というものも出来る。
お金が欲しいのならば、積極的に、自分から、お金がもらえるように努力すればいいだけのことだと思うのだが、アフィリエイトを導入したブログを自分でやっていく中で、気付いたことがあって、それらの気付きを結びつけてみよう、というのが、今回の文章である。

友人は詩人であり、精神病を患っており、ブログでは、精神病に苦しむ自身の内面、生きることへの苦悩、などが個人的な視点から、書かれている。
それと、詩が載せられることもある。
かなり大まかに言ってしまえば、メンヘラ系ブログと詩ブログを組み合わせたもので、友人のブログの愛読者は、一定数いるとのこと。
僕も、その一定数に入る。

僕が友人に提案したのは、メンヘラ系と詩を組み合わせた友人のブログを、集金出来るものに変えていくことの可能性なのだが、このことに、内心、抵抗があるのは、アフィリエイトなども含めて、いわゆるネットビジネスに包括されるものの内容のだいたいは、社会的成功、自己実現、向上心、価値のある情報、などで、メンヘラ系、詩的なものは、需要がないのではなく、ネットビジネスの一つとして、ほとんど、語る人がいない、という事実ではないだろうか。

簡単に言ってしまえば、ポジティブなものを読者に届けるのがネットビジネスであって、メンヘラ、詩などのネガティブなもの(現代詩はどう考えてもポジティブなものとは言えまい)をネットビジネスにすることは、ヘンテコなことではあるだろう。

ここに、世間というものがある。
世間というものを、言葉で厳密に定義しようとすると、これはなかなかに難解で、世間とは何か、という本があるぐらいで、僕は、世間についてきちんと言葉で言えるほど頭がよくないので、大まかに使っているだけなのだが、世間というものは、往々にして、ポジティブなものを奨励し、ネガティブなものを否定し、排除しようとする傾向があるように思える。
そうでなければ、自傷行為や自殺未遂を、自己表現、そして、他人への伝達手段であったと書くはずがないからである。

お金を稼ぐとは、基本的には、社会に何らかの貢献をした結果から得られるものであり、仕事とは、すなわち、社会的な行為である。
社会人とは、まさしく、社会の一員として、生活を営むことに他ならないだろう。
裏返せば、仕事に就けず、病気に苦しみ、詩を書くのをもっぱらにしている友人は、社会人とは言えず、社会に何も益していない、貢献出来ていない人間、ということになる。

アフィリエイトをしてきて、実感していることは、ネットというのは、共感が重要なものだということだ。
受け手に共感してもらえるかどうかが、ネットでの人気に直結すると言っても過言ではないように、僕は感じている。
共感に、優劣は存在しない。
正確には、表現としてのレベルはあまり重要視されない。
表現としては稚拙であったとしても、受け手が共感出来たら、それはいいネットコンテンツなのである。
だから、ブログに求められるのは、いわゆる名文家ではなく、より多くの受け手が共感し、納得し、そこそこに感動出来る文章を書ける人なのではないだろうか。

例えば、この文章などは、小難しい感じで、多分、あまり共感は得られないだろう。
もちろん、僕は、読み手の共感を得たくて、この文章を書いているつもりがない。
ただ、自分の考えを、僕の文章が読める程度の人(主に友人)に向けて、ある程度は整然と、披露しているだけのもので、別に、どうということはないし、そこに読み手にとっての価値があるかどうかなんて考えていないし、価値などなくてもいいとさえ思っている始末である。
説得も諭しもせず、ただ、自分の考えをまとめようとしているだけのものであった。

僕は、長いこと、ブログを書いたり、ネット上で写真を発表したり、Twitterをしたりしているけど、この、共感というものが、今でもイマイチ分からない。
だから、ネットというものもよく分からないし、自分がそういうものに向いているとも考えてはいない。
最近の僕が、以前の僕と変わったことは、本名名義でネットにアップする時は、どんなものであれ、ネガティブなものを、前面に押し出さなくなったのと、ネット上の受け手に対して、お客様、という意識が芽生えたぐらいものである。
愚痴や悪口を書かない、批判も極力しない、自分というものを勘定に入れず、アクセス数などを重要視する、と言った具合に。

ハンドルネームでやっているTwitterやブログは、僕の本音のようなもので、本名名義の方は、建前のようなものであろうか。
本音で人気が出たりすれば、いいと思うのだけど、僕が本音を出すと、だいたい上手くいかないので、自分というものを出さないで、やってみよう、という一つの実験みたいなものなのかも知れない。
そうやって、そこそこには、成果が出始めているので、僕にとって、本音は、あまり他人が必要としていないものだった、という、一つの悲しい事実が垣間見られるのだが、現実や社会とは、そういうものらしいので、要は、それを認めて受け入れるのか、否定して抗い、夢を見続けるのか、ということなのだと思う。

例えば、写真は、僕の撮りたいものを、撮りたいように撮っていたら、不評だったので、主に、空と花しか撮らなくなった。
それは、単純に、シンプルに、美しいものを、美しいと感じて、見る側にも、美しいと感じさせられるような写真しか撮らなくなった、ということである。
その美しさは問わず、また、限定せず、花や空の色彩、模様、シルエット、そんなものは、見れば分かるでしょ、だから、撮り手の僕は何も言いませんよ、好きなように感じて、見て下さいね、ということでしかない。
つまり、それは、何もない、ということに、僕からすればなる。
美しいものがあって、その美しさを問わないのは、心を空しくさせなければ、出来ないことだからだ。
吟味や厳密とは掛け離れた行為である。

僕にとって、これぐらいの文章や内容が、等身大であるのだが、世間的には、難しい部類に入るのではないだろうか。
先日、Twitterのタイムラインで、東浩紀さんの本を愛読しているのだが、内容が難しい、みたいな呟きがあって、僕にしてみれば、東さんの「動物化するポストモダン」と「ゲーム的リアリズムの誕生」は、内容的には、それほど難しい本ではなかった。
ただ、書き方が、小難しいだけで、その大凡の内容は、大塚英志さんと東さんの対談本「リアルのゆくえ」でかなりざっくばらんに語られている。
つまり、東さんが問題にしてきたのは、現在のリアルについてであり、それに、ゲーム的リアリズム、と名付けているのであった。

とまぁ、こういうことは、本名名義では書かない。
ウケが悪いことが分かるからである。
僕は、本名名義では、ややこしいことは扱わないことに決めている。
文章に関しては、受け手に需要がありそうな情報を中心に、Wikipediaの引用も交えて、情報提供が出来ればいいな、と考えているし、写真に関しては先ほど書いた通り、サウンドクラウドでアップしている音楽も、自分としては、ネガティブなものをやっているつもりはなく、ただ、どうやら、どちらかと言うと、前衛音楽寄りなのかも知れない。
前衛音楽もやはり、ポップスなどに比べて、ウケが悪ようである。
これはもう、分かっていても、前衛音楽っぽくなってしまうのだから、仕方がない。
作曲に関して、建前や抑制が出来るほど、僕は成熟していないからである。
それは、ただの未熟で、自分で自覚しているのだから、どうしようもないことなのだ。

話を友人のブログに戻すと、世間には、メンヘラに属する人達が間違いなく存在している。
メンヘラとは、何らかの精神病などを患っている人のことだからだ。
その存在は、社会的にも認知され始めているし、NHKの番組でよく扱われている。
友人のブログを愛読している人の中には、そのような人もいるし、もしかしたら、そのような人達が割合として多いのかも知れない。
自分の精神的な苦しみや生き辛さのようなものを、友人のブログに重ねて、共感している読者も少なからずいることだろう。
その意味では、ネットコンテンツとしての価値は、無価値とは言えない。
ここには共感があり、友人のファンもいることだろう。

この価値を自覚し、掘り下げ、お金が儲かる仕組みを作るのか、現状のまま、ただのブログであり続けるのかは、友人次第で、僕は、お金が欲しいのならば、お金が儲かるようにやってみてはどうだろうか、と提案しているだけのことなのであった(お金など儲けたくない、というならば、こんな提案はしないので)。

例えば、最近仲良くなった人が、旅好きで、写真を始めた。
旅行と写真撮影をセットにして、あわよくば、写真で儲けたい、という考えのようである。
その人の写真をスマホで見て見たのだが、現状、お金になる写真ではなかった。
つまり、見るだけで、人を感動させる写真ではなかった、ということだ。
写真を始めてそうそうに、買い手など現れるわけがない。
その人は、夢を見ているのであった。
僕は親切な、お節介な人間なので、柔らかく、その夢から目覚めさせた後に、写真ブログをやってみたらどうか、と提案してみた。
写真作品としては未成熟であっても、ネットで重要なのは共感で、未成熟だからこその共感を得られれば、自分と近い人との交流などもあるかも知れず、それは励みになることだろう。
また、アフィリエイトを導入すれば、旅の便利アイテムなどをリンクに貼って紹介し、お金を儲けることも出来るかも知れない。
写真作品で儲けるのではなく、旅好き・写真好き、という共感は、ネットでは有力な要素になる可能性はけっこうあるのではないか、と僕は考えての提案であった。
ただ、写真ブログを続けるのには、根気と努力がいる。
コツコツと続けることは、何事も、面倒臭いところがある。

アフィリエイトとは、商品ありきで、商品購入に結びつかなければ、お金にはならない。
僕が友人に勧めたいのは、今のブログをお金に結びつけることよりかは、音楽ブログを新設して、自分の好きな音楽を肯定的に書いて、アルバム購入や、曲のダウンロードに結びつけることである。
僕は、音楽ブログにアフィリエイトを導入してやっているけれど、音楽への造詣があまりなく、言葉が豊かでもない。
だからこそ、音楽の動画を紹介する、ということを始めて、それは、読者に情報提供をしているだけのことではあった。
だからこそ、僕は、自分の意見や感想は、おまけ程度にしか書かないし、造詣がないので、おまけ程度にしか書けない。
友人はギターリストでもあり、ギターの話題も書けるし、自分の愛聴しているロックバンドの曲などについてもいろいろと書けるので、そこにちょっと商品のリンクを貼るだけでも、何もしないよりかはマシなのではないか、と思うのである。

ギターならば、ギターはもちろん、弦とかいろいろなアイテムがあるし、ギターのニーズは電子音楽に比べて間違いなく多い。
軽音の中でも、ギターは花形的存在だろう。
そして何よりも、友人はロックミュージックを愛している。
好きで好きでたまらない。
その情熱や想いを読み手に伝えることが出来れば、双方にとってプラスになる何かになるように感じている。

ゲーム的リアリズムに関するであろうことも書きたかったのだが、文脈がややこしくなりすぎるので、それは別の記事で。