覚書 10

覚書 10

一昨日、忙しかった。
修学旅行の撮影で、奈良と京都へ日帰り。
朝六時に出発して、帰宅したのが、夜の十時だった。

先週の日曜日に、新しいアルバム、ソロでは四枚目、for futureを完成させた。
今回は、十枚作ってみた。

今、このアルバムをプレイヤーで流しながら、文章をiPhoneで打ち込んでいるのだが、すでに、自分の手からは離れて、他人の曲のように感じられる。
そして、この曲が、どの程度のものなのか、自分ではよく分からない。
悪くはない、とは思うけど、どの程度の出来で、どういうもののか、というのは、ピンとこない。
その点では、やはり、まだ客観視出来ていないのだろうし、一生、客観視なんて出来ないかも知れない。
ただ、現在の自分で出来ることを積み重ねた結果であって、手を抜いてはいないし、言い訳も出来ない、自分の音楽とはこれだけのものです、としか言えないし、言うつもりもない、そういう納得の仕方をしている。

今回は、聞き手が喜んでもらえることを重視した。
すなわち、自分がこうしたい、というよりかは、従来の音楽、テクノミュージックを参考にしながら、突飛なものではなく、まとまりのある、破綻のない、クセをあまり表に出さないように、心がけた。
だからなのか、今回の曲は、末摘花と鎌鼬の二曲以外は、思い入れがないし、現時点で、まるで他人の作った曲に聞こえてくる。
ソツがないなぁ、と思う。

私は、今までの人生で、「作品」というものを作る上で、他人を喜ばせたい、という気持ちをほとんど思ってこなかった。
つまり、ウケがいいか悪いか、ということを度外視して、作り続けてきた。
私はもはや、(自称)作家ではないし、作家意識も棄てている、あるいは、棄てようと考えているので、作品を作るということは、余暇でしかないだろう。
音楽ぐらいは(音楽を見下しているわけではなく)、エンタテインメントとして、不快ではないものを、前面に押し出して行きたいと感じている。

何がいい音楽なのか、私にはよく分からない。
私は、電子音楽をやり始めたので、そのような音楽を意識的に、よく聞くようになって(今まではそれほど聞いていなかった)、今までよりかは、いろいろなものを聞いていく中で、globeの曲が一番、心に残った。
聞く度に、新鮮な発見があるし、音質がとても素晴らしい。

数日、Amazon、そして、ブックオフとゲオをハシゴして、中古CDを二十枚購入した。
半数以上が、globeおよびに小室哲哉さんのソロのアルバムで、まだ、きちんとは聞けていないが、これで、globeのアルバムを十枚、手元に揃えたことになる。
今の私にとって、音楽の教科書は、globeで、その音楽を手がけている小室哲哉さんの音楽をいろいろと聞いて、これからの音楽制作の参考にさせてもらおう、と考えている。

数日前、電話がかかってきて、スタジオのカメラマンが不足しているから、手伝ってもらえないか、という打診だった。
とりあえず、明日、スタジオを見学する約束をした。
もし、手伝うことになれば、休みの日がないぐらい、忙しくなりそうで、そもそも、十月は、婚礼の撮影依頼が多く、毎日のように、依頼のメールが来て、スケジュール管理に滅入りつつあるところである。
指折り数えてみたら、現在、私は、五つの会社から仕事を受けて、生活をしている。
五つといっても、もらっている給料は高くなく、生活するので精一杯であるのだが、それぞれに、対応せねばならず、また、バッティングしないように、カレンダーに常に気を配っていなければならず、めんどくさいといえば、けっこうめんどくさい。

仕事が忙しい、というのと、アルバムを二十枚購入した、というのもあって、しばらくは、曲を作らず、人様の音楽に浸る時期にしよう、と考えている。
二人のユニットのアルバムを作ってから、およそ三週間で、四枚目のアルバムを作って、我ながら、ペースが早いな、と思っているし。
そう考えているのだが、新しい音、音楽がすでに、仄かに、私の頭の中にあるのも、感じている。
多分、曲全体の一割程度であるが。
私は、音楽を作り続けてきて、一年間ぐらいになるが、そのことで苦労した覚えがない。
もともとが、苦手だから、という理由で始めたのだから、もっと、右往左往するものだと思っていたのだが、苦手意識があるからこそ、気負いがなく、また、もしかしたら、私と音楽を作る行為は、相性がよかったのかも知れず、気付けば、合作も含めて、五枚のアルバムを作り終えていた。
五枚のアルバムを作ったからといって、自分のことを凄いとは思っていないし、自分の作った曲が、ことさらに優れているとも思えず、こんなものだろう、と思っている。

少し前に、自分のファーストアルバムを聞き直して、驚いた、というようなことを書いたが、それは別に、自分のことを凄い(天才)、と思ったわけではない。
そこには、現在の自分の音楽とつながるルーツが確かにあった、というのがまずあって、それは具体的には、音色、音の重ね方、センスなどであり、そして、今の自分では考えられない、未熟ゆえの音の重ね方、繋げ方が多々、見受けられて、その新鮮さが、私の心をとても打ったのである。
「ああ、私は最初から一貫した音のことをやっているんだな」という安心と、「なんだこれは?」という今の自分の作り方とは大きく外れる、ある種、デタラメな曲作りに言葉を失う、その両方があった。

少し前に、久しぶりに、自分のファーストアルバムを聞き直してみて、度肝を抜かされた。
本当に、驚愕した。
何故ならば、私はずっと、自分のファーストアルバムは駄作だった、と捉えていたからである。
一つには、ユニットを組んでいるギタリストの友人が酷評しているのと、二つ目には、やはり、未熟である、ということがあって、まぁ、こんなものかな、と思っていたところ、聞き直してみて、思いのほか、よかった、今の自分にはないよさが、私にはとても強く、鮮やかに感じられた。
まぁ、こんなものかな、という自分の観念を超えたところに、私のファーストアルバムはあるように思える。
まずなにより、「自由」があった。
分かりやすく言えば、作り手に、音楽でしてはいけないこと、という意識がなかった。
逆にいえば、今の私からすれば、してはいけないこと、とか、しない方が賢明だろう、ということがたくさんあって、しかし、だから、ダメ、ではなかった、ということを再発見出来た。
だから、私は、このファーストアルバムの曲たちの自己評価を変えたし、このような音楽の存在を受け入れるべきではないのか、とも思っているのだ。
他人がどのように評価しようとも、私にとって、このファーストアルバムは、いいアルバムだと捉え直している。
音質はかなり悪いし、未熟だし、理解できないところさえある、それらを踏まえてなお、ここには、私が否定できない「音楽」があることを、私は認めざる得ない。

実は、新しいiPhoneシンセサイザーや音楽関連のアプリをすでに、いくつか購入して、ダウンロードしてある。
それと、もっと、カオスパッドを使ってみたいな、とも思っているし、次は次で、やりたいことが見えている。
歌詞を作ったのもそれであって、次は、もうちょっときちんとした歌ものに挑戦したいし、音を加工してみたり、いろいろと、具体的に、新しい手法があり、さらには、それらの手法は、重複出来るので、曲を作る上での選択肢は大幅に広がっているのではないか、と思われる。
今回のアルバムでは、あまり新しいことに挑戦せず、分かりやすく言えば、保守的に、出来るだけソツのない曲、アルバムを作ることを最重要課題にしていた。
まぁ、音楽を始めて、二年目に入ったので、一年目とは違う感じでやれればいいかな、とは思う。