覚書 4

覚書 4

昨夜、僕は自分が一人で全てを製作したファーストアルバムを自画自賛して、それは、どうやら誤解を招きやすかったもののようで、僕がまず感じたのは、ファーストアルバムには、僕の「音色」がほとんどあますことなく入っていたこと、次に、音と音の組み合わせ方が、今の僕からしたらデタラメで、そうとう飛躍した曲の流れに感じられたこと。
だから、すごい、と思い、そのことを書いた。

僕の音楽的素質は、自分で感じるところでは、音と音の組み合わせ方、間の取り方にあるのではないか、と。
現在、僕は、自分の感情をなるべく曲には反映させないように、そういう意味では、職人的に作るように務めていて、以前のように、音色を自分で弄ることをあまりしなくなった。
つまり、すでにあるシンセサイザーのプリセットの音色から選択し、シーケンサーも、自分で組み立てるのではなく、すでにあるサンプルをそのまま使うことが多い。

確かに、間違いなく、僕の曲の製作方法は、イージーで、とりあえず、iPhoneのシンセのアプリをいくつかダウンロードし、操作のコツさえ覚えれば、誰でも真似することが出来る。
音楽を独学でずっとやってきている僕は、だから、こんなものは誰でも作れる、と思っていたし、言ってもきたのだが、昨夜から、自分のファーストアルバムから現在までの曲をすべて聞き直して、いや、これらの曲たちは誰でも作れるものではないだろうな、と実感した。

僕は、他人もまた、作り手である僕と同じように、僕の曲を評価するなどとは思ってはいない。
そんなことを書いているのではなく、このような音を使い、このように音を組み合わせる感性は僕のオリジナルで、他人に真似が出来るわけではないだろう、と思っているだけのことである。

僕は、僕の音楽的素質が特別に優れているとは、今でも思ってなどいない。
ただ、僕がシンセサイザーを用いた所謂テクノミュージックを、苦労なく作り続けていられる理由は、数多ある音色やリズムを選択し、それらを組み合わせられるからではなかろうか、と。
そして、そのような音楽的素質を誰もが持っているわけではなく、テクノミュージックを自作したくてもなかなか自分の思い通りに作れずに、悩んでいる人もいるだろう、と感じるようになってきた。

だからこそ、僕の曲のことを話す時に、僕にろくに音楽知識がなく、作り始めて一年に満たないことを前面に押し出し、楽曲を作りたくても作れていない他人に、あなたでも作れるのではないか、などと音楽を作ることを勧めるのはデリカシーに欠けることで、時に相手の心を土足で踏みにじる事態になりかねないのではないのか、と述べているのである。
それは、一言で言えば、言う方の奢りでしかない。

それだったらならば、まだ、僕にはたまたま音楽的素質があって、たまたま使い勝手の良いシンセサイザーをいくつか手に入れて、テクノミュージックを作るのに向いていた、と他人に言っておく方が、相応しいように感じている。

何度も書いているように、僕は、音楽マニアではないし、音楽を作ることに、特別な思い入れやポリシーなどがあるわけでもなく、ましてや、自分の曲が他人にとって、すごくいい、とは思っていない。
もし、そうではなく、音楽マニアで、特別な思い入れや憧れを持っている人が、それだからこそ音楽を自分で手がけることにずっと躊躇しているようならば、片や何の苦労もなく音楽製作をやれてしまっている僕のような人間がいることで自分の誇りを傷つけられてしまうこともあるかも知れない。

やれない、ということは、シンドイことで、それは、やれてしまえる人間ではなかなか理解することが難しい苦しみなのではないだろうか。