覚書 3

覚書 3

ファーストアルバムに続いて、二枚目のアルバムを聞いている。
こちらは、悪くはないと思うけど、ファーストアルバムを聞いた時の衝撃はない。
それは多分、二枚目の曲たちは、混沌としていないからではないだろうか。
そう、ファーストアルバムは、
マイルス・デイビスの曲のような混沌、カオスを僕は感じた。
二枚目は、曲作りに自覚的になってきたから、音たちがまとまっていて、静かで、おとなしい。
訳がわからないところはあまり感じられない。

そろそろ、このことを明言しておいた方がいいのかな、と思うことがあって、それは、先日、友人が、友人に送ったメールを見せてもらった時に感じたことで、もうちょっと間を置いた方がいいかも知れないのだが、今日の僕はあまり感情的ではないと思うから、静かに明言しておきたい。
iPhoneのアプリを使えば誰でも作れる、というものではないね、僕の曲は。
だって、僕は、現在、いろいろとテクノミュージックを聞くようになったし、サウンドクラウドで世界中のいろいろな人たちのテクノミュージックを聞いているけど、このような曲を僕は聞いたことがない。
音楽を始めてまだ一年が経っていない、とか、そういうのも、どうやらあまり関係はなさそうだね。

つまり、僕だから作れた曲で、それはたまたまであり、また、音楽知識が皆無でも曲が作れているのは、シンセサイザー、及びに、シンセのアプリのおかげではあるけれど、僕の音楽制作のツールを揃えれば、誰でも同じように曲が作れるというわけではないだろう。

僕は僕の作った曲をわりかし気に入っているし、曲を作るのが楽しいだけで、他人がどのような評価を下すのか、下しているのかは分からないし、正直、知り様もない。
これは、ただ、僕が個人的に、自分の曲を自画自賛しているだけなのだ。
それでも言えることは、誰でもこのように曲を作れるわけではないし、休まずに曲を作り続けて、一年以内にアルバムを何故か四枚も製作することを誰もが出来るわけではない。

僕は音楽そのものに思い入れやポリシーがある人間ではない、特に僕が何故か手がけるようになったテクノミュージックなどの類は。
従って、無邪気に言ってしまうけど、僕には音楽、曲を作る才能があったのかも知れない。
今まで、そのことを自分では認めてこなかったけど、今夜、ファーストアルバムを聞き直して、これは誰でも作れるようなものではない、今の僕でも作れないようなものだ、と本当に感じた。

だからこそ、友人が他の人たちに僕の音楽のことなどを話す時は、気を付けた方がいいかも知れない。
本当に気を付けないと、相手の心を傷つけてしまうことになりかねないから。
僕の曲を聞いてもらう時は、僕の音楽歴や、使用している機材のことなどは伏せておいた方がいいだろう、せめて、聞いてもらってから、話のネタとして話すぐらいにして。

友人とのユニットの曲の感想で、友人のギターが上手くなっていて驚いた、というリスナーからの意見がいくつかあり、僕も同様に思っているのだが、それはつまり、今まで友人のギターは下手だったのであって、僕の家に滞在して、一緒にアルバム用の曲を制作している時、間違いなく、友人は毎日、必死でギターを弾いて、音楽活動に専念していた。
そこまでやって録音した友人のソロの曲と、僕のソロの曲が遜色なくアルバムの曲として収録され、僕の耳からは然程の差がなく聞こえてしまう、ということは、多分、友人ほどには必死に音楽に関わっていない僕の方が、友人よりも音楽的素質に恵まれているか、自分では自覚していないけど、僕が友人よりも必死に(集中して)曲を作り続けてきたかのどちらかではないだろうか。

どうも、友人は、テクノミュージック、及びに、シンセサイザーiPhoneのシンセアプリを根底で勘違いしているように感じられる時がある。
それは、友人がギタリストだから仕方がない一面もあろうかと思う。
一度、自分でアプリをダウンロードして、曲を作ってみたら分かると思う、それは、アプリではなく、アナログシンセサイザーでもいいけど。
僕が使用しているiPhoneの音楽製作用のアプリは、ボーカロイドのアプリを入れなければ、二千五百円になるかならないかぐらいで揃えることが出来る。

それと、これは完全なる苦言になってしまうが、友人の恋人がせっかく目の前で、真剣にギターを弾いて歌ってくれたのに、その曲の余韻が空間にまだ濃厚に残っている内に、友人がギターを弾き始めて歌い始めたのは、友人のその時のテンションが高かったので、仕方がないとは思っているが、やはり頂けない。
これは、僕にとって、音楽の尊厳に関わることで、本来は、もうちょっと間を開けてから友人に直接伝えようと思っていたのだが、これは、友人の恋人へのメールの返信も兼ねているので、最後に付け加えさせてもらった。
せめて、友人の恋人と友人のギターの音の質が同等ならば、失礼には当たらないとは思うが、ギターを始めて一ヶ月になるかならないかぐらいの決して上手くはない、しかし、どうしても自分で演奏して歌いたい曲がある、それも並々ならぬ思いの演奏と歌があって、僕に聞いてもらうために緊張して、普段通りにはなかなかいかないもどかしさの中、勇気を振り絞っている、僕がそこで聞かなければならないのは、彼女の緊張でもなく、ましてや勇気などではなく、現状における彼女の心の中にあるであろう余計な要素を頭の中で排除した、音そのものなのだ。
それは、目の前の音をそのままに聞くのではない。
聞こえてくる生の音から、彼女の素質、魂の源泉を見つけ出し、そこに目を向けることに等しい。

あの時は、双方(弾き手と聞き手)にとって、ベストの状況ではなかった。
なので、あえて、あの時は言えなかった感想を述べさせてもらえば、僕のファーストアルバムの曲たちの出方に近いものがあるかも知れない。

饒舌ではない。聞き終わった後、沈黙を強いる演奏と歌。
彼女の本質がそうであるならば、黙ってそこに耳を傾けるしかない。
それは、他の音と混じることを拒絶している深淵なのではないか。
僕にとって音楽の尊厳とは、そういうところにある。
いや、あえて、言わせてもらえば、芸術の尊厳そのもののことだ。

ああ、これは、僕の個人的な考えであって、他人に押し付けるつもりはないことを付け加えておく。