覚書 2

覚書 2

通勤電車で、最近作った二人のユニットのアルバムをiPhoneで一通り聞いたあと、仕事帰りにiTunesに入れてある僕が一人で全て初めて作ったアルバムを電車の中で聞いてみたら、涙が出そうなぐらいに感動した。
ただ、すごい、と思った。
最近作ったアルバムにはない何かがある。
つまり、音楽を始めて四ヶ月程の、シンセサイザーをいくつか手に入れて、電子キーボードと組み合わせた曲たち。
本当に手探りで、訳がわからないまま、iTunesの設定も弄っていなかったので、音質が悪いアルバムだけど、ここには、僕の原点(ルーツ)であり、かつ、素質が凝縮されて在る。

確かに、今の方が、僕はそつなく曲を作ることが出来る。
音のつなげ方、組み合わせ方などもそれらしく出来るようになってきただろう。
だからこそ、なのか、今夜、自分のファーストアルバムを久しぶりに聞いて、どうしてこんな風に曲を作れるのか、理解できないところがあったし、今の僕では真似できそうにないところが満載だった。

実は、電車の中では、ファーストアルバムの三曲目の途中までしか聞けなかったので、今、自宅のテレビで続きを聞き始めたのだが、やはり、言いようもない不思議な感覚に包み込まれていくのを感じている。
これは、まさしく、僕が手がけたポートフォリオを音楽で表現したものだ。
なんだ、僕は、すでに、やっていたじゃないか。

僕は、音楽を始めてもうじきに一年になる。
その一年間に、アルバムを四枚制作した。
流通させるのが目的ではないので、毎回、7枚ほどしか作らず、人に渡したのは、5枚になるかならないか、ぐらいの自主製作のCD。
とにかく、僕は、休むことなく、曲を作り続けている。
それはただ、作るのが楽しいからだ。
だから、ファーストアルバムの曲なんて、本当に忘れていて、今でも、まるで、他人が作った曲のように聞こえてくる。

もし、誰かが、これらの曲を作ったとしたら、僕は、本当に、すごいことだと思う。
これは、音楽を始めて四ヶ月程の人間が作ったからすごいのではない。
曲がすごいのだ。

これは、僕の、心の内、心根そのものだ。
その、心の内、心根が現れてしまっているアルバムの、他人の評価は分からない。
そもそも、僕は、そういう目的で音楽を始めたのではなかったのだから。

え、この人、何やっているの? と曲を聞いて驚いてしまう。
知らないということ、無知だということは、時に恐ろしい。
とんでもない音と音を組み合わせてくる。
それらの音が僕へ飛んでくる。

処女作には作り手の作家性が凝縮されている、とよく言われる。
確かに、この、初めて作ったアルバムには、僕の音楽への素質が混沌としたままに、凝縮されてあった。
ここからテクノミュージックの要素を構築して作ったのが、二枚目のアルバムであり、アンビエントミュージックの要素を凝縮させて、音楽ではなく、音として仕上げたのが三枚目、四枚目になった友人との二人のユニットでのアルバムは、友人の考えに従って、ポップな曲を揃えた(二人でセッションした曲はポップとは言えないが、ソロの曲はポップで、実際に幾人かの感想を聞いて見たところ、僕のテクノミュージックはウケがよかった。つまり、いいね、と言いやすい曲であり、それは、僕が既存のテクノミュージック、クラブミュージックに寄せているからではないだろうか)。