覚書 1

覚書

二年間準備してきた写真賞に応募した結果は、箸にも棒にもかからない、四つ切りワイドにプリントした40枚の写真をB3ファイルに入れて見返し、また、受賞した写真作品をネットで見て、思うところがないわけではないが、それを今更、あれこれと書いても仕方がない。
僕は、今回が最後の機会だと思って取り組んできたので、今後、自ら、賞に送ったりする考えはない。

どうも、自分で制作したポートフォリオを何度か見直した後に、他人の写真を見ていると、意味に傾いている様に感じられてならない。
現在、僕の家にいる友人は、そういう写真を左脳的で、僕のポートフォリオを右脳的だと言い表していて、言い換えれば、そのような写真は言語的らしい。
そして、受賞した写真作品はコメントがしやすく、僕のポートフォリオはコメントがしづらい、とも言っていたのが印象的だった。

友人は、言語的な人間のようで、詩人でもあり、言葉の多い人間である。
この友人が、ファイルに入れてブック形式にまとめた僕のポートフォリオを見て、言葉を失ったのも、印象的であった。
出来の如何に拘らず、何か感想や批評が聞けるものだと思っていたのだが、僕のポートフォリオを見た後、友人はしばらく沈黙していた。
この友人にして沈黙を強いるものなのだから、僕の作品はよほど言葉で表しにくいものであることを、僕はようやく自覚するようになってきている。

このことは、個人的に気になっているので、また折に触れて、ブログで書いていくことになるだろう。

僕は今回の結果を受けて、今以上に作家気取りはやめよう、と思っているし、もはや、他人に芸術のことで諭したり、教えることはしたくない、とも考えている。
少なくても、僕の作品、及びに、芸術観は、時流からズレていることは間違いがないだろうから、それは、多くの人たちにとって、誤りに近いことなのだろう、と感じられるからである。
そんなものを他人に押し付けても仕方があるまい。