写真について 沸騰篇 第十一回

写真について 沸騰篇 十一回

友人がテンションMAXで、友人たちに手当たり次第に電話をしたのが数日前、その友人の一人でもある僕にも何度か電話がかかってきて、基本的に暇な僕は、長電話をしたりしたのだが、一度、友人の女友達なのか、女の知り合いなのか、と、スカイプをしていて、僕とダブルブッキングの形になったことがあった。
そういう時の友人は、チャンプルにする傾向があって、僕からしたらまったく知らない女性と、友人の三人でスカイプをすることを提案し、その場のノリで、急遽、三人でのスカイプをした。
結果、二時間しないぐらいで、女の人が、疲れた、と言って、お別れを告げた。
そうなることも分かっていて、こちらとしては、相手が詩、もしくは、詩みたいなものを書いているとしても、話が合わないことは目に見えていて、極力、難しい話は避けたのだが、そのことで、相手はともかく、僕の心は傷ついた。
僕は、それぐらいには、繊細な人間のようだが、あの時に話したことは、いつもとは違う相手だからこそ出てきた話のように思え、今、思い返し、自分では興味深いところがあるので、ここで書き直してみることにする。

人間が、本当に、死にたい、消えたい、などと思っている、感じている時の自分への対処法は、僕の中では二つしかない。
一つは、悩みを直視しないように、無我夢中になれることを定期的に行うこと。
もう一つは、気の知れた人、もしくは、人達に話を聞いてもらうこと。

すでに、このような人、自分には、負のオーラが溜まりに溜まった状態で、それが溢れ出ている。
そのような時に、他人に話すことは、特に、仲がよければ、自分の負のオーラが関係性に影響を及ぼすことは間違いなく、相手がよほど信用、信頼に足る人間でなければ、その関係性は歪んだり、永続しないことが多い。
相手がただの偽善者の場合は、些細な裏切りで終わるだけだろうけど、質が悪ければ、自分の弱みにつけこんで、騙しにくることも考えられる。

負のスパイラルに巻き込まれ、さらなる苦しみが訪れる。

ならば、まず、自分の負のオーラが落ち着くまで、何か、気が済むようなことを、定期的にした方が、自分にとって安全であるし、他人を巻き込まない分、良心的でもあるように思われる。
仲の良い人とも話を聞いてもらい、一人で出来ることも続けていくことが、自分の心の栄養になるのではないだろうか。

僕の場合、それは、写真であり、音楽であった。
今でも僕は、毎日五枚以上、写真をインスタグラムにアップし続けているし、サウンドクラウドで曲をアップし続けている。
それらは、作品というよりかは、それらをしなければ、より一層、辛いから、死んでしまうから、やっているところが大きい。

写真なんてものは、押せば撮れるのだし、音楽なんてものは、例えば、カオシレーターならば、指でパッドをなぞれば音が出る。
何も迷う必要がない。
写真とは、事象と事物の重なり合いなのだし、音楽とは、音と広がりと経過的な変化でしかない、ここでとりあえず、断言してしまおう。
だから、こちらがしなければならないことは、空間と時間の関係性を見つけることであり、それにはコツが必要だとしても、技術的な向上を望まなければ、誰だとて、日常的に(多くの場合、無意識下で)行っている当たり前な認識なのである。

あの日のスカイプでは、そこまではまったく知らない相手に言わなかった。
というよりか、かなり端折って、実践的なことだけを述べた。

それはつまり、毎日、生きがいになることを行うことの重要性である。
僕は具体的に、写真を毎日撮ることを勧めた。
なぜならば、写真を撮る為に、主に、外出しなければならないからであり、また、外出のついでに撮れるものでもあるからだ。
どこかへ行くついでに、写真を撮ってもいいのだし、その写真が傑作である必要もない。
もっと言えば、写真には、撮影者の、無意識下まで写ってしまうものなので、それは、消えていくのではなく、現れる、という形で、
基本的には表現される。

別に写真にこだわっているわけではなく、日常というものは、生きるということの多くは、些細なものやことが支えになっている。
それは、ヨガでもいいし、グルメでもいいし、散歩でもいいし、ショッピングでもいい。
裁縫でもいいし、調理でもいいし、掃除洗濯でもいい。

写真を勧めたのは、表現手段の中では、比較的、手頃に始められるのと、コストがあまりかからないのと、健康的だからである。
とはいうものの、神経質になってしまっては、不健康になってしまう。
ほどほどに、自分のペースで、何かのついでに、やる分には、健康的なのではないだろうか。

スカイプでやりとりした相手は、その後、僕のTwitterのアカウントをフォローしてくれたので、こちらは、別アカウントでフォローし返したのだが、昨日、フォローが外されていることに気づいて、今日、多分、その相手がTwitterのアカウントを削除したことに気づいた。
どうして削除してしまったか、その原因の予想があって、だから、僕は、写真を勧めたのである。

愛とは、ただ、与えてくれる人を探すことだけではあるまい。
愛とは、まず、与えること、そして、ギブアンドテイクなのではないだろうか。
愛とはそれぐらいには現実的で、時に甘美で、時に苛酷なもので、何よりも、覚悟を必要とする。