写真について 沸騰篇 第二回

写真について 沸騰篇 第二回

近頃は、少し、頭の沸騰がマシになってきているみたいで、それは、夜、寝付きがよくなってきたからかも知れない。
数日前から、玄関が一番、風通しがよくて、涼しいことに気づいて、フローリングの床にそのまま寝転んで、トランクスと腹巻、腰と足裏と首筋に湿布を貼って、眠っている。
そうすると、腰に痛みがある時はあるけど、寝起きの感覚は、悪くはない。
猫のように丸まって寝れば、腰の負担が減るので、そのように寝るように心掛けている。

頭が沸騰する原因の一つは、首筋のコリと熱なのかも知れない。
というのは、首筋に湿布を貼ると、ひんやりして、気分が落ち着くからだ。
あまり沸騰し過ぎると、頭がオーバーヒートして、壊れてしまうだろう。

インスタグラムに、毎日五枚、必ずアップするようになって、一ヶ月半ほどが経ち、iPhoneのカメラで撮影した写真のストックは、増え続けている。
今朝、自分の写真サイトを少し見返した。
そこには、僕のポートフォリオが見られるようにしてあって、このポートフォリオは、終盤を除いて、光がまばらではない、ということに気付いた。
このポートフォリオは、夕暮れ、で終わっている。
夕暮れの光の中で。

現在、僕がアップしているインスタグラムの写真は、光がまばらであることが多く、そこに、花であったり、草であったりが写っている。
これは、どうやら、ポートフォリオの終盤の光、夕暮れ、の延長線上に、僕は光を見ているようで、つまり、インスタグラムでの写真は、ポートフォリオの続編、と言えなくもない、ということなのかも知れない。

そして、ポートフォリオの写真と、インスタグラムの僕の写真の違いは、作品意識があるかないか、というところで、僕は、インスタグラムでポートフォリオを作るつもりはないので、肩の力が抜けているな、と感じる。
毎日五枚ずつ(たまに七枚ほどアップするけど)のペースでは、今の段階で、撮影した日時から一ヶ月ほどの間が空いている。

前回のポートフォリオは、一ヶ月単位で、撮りためた写真(一ヶ月で千枚以上の写真を撮影していた)の中からセレクトして、だいたい多くて四十枚未満の写真を写真サイトにアップし続けた。
ということは、セレクトの時に、選ばなかった写真がかなりある、ということでもある。
これらの写真は、一度も他人の目に触れることなく、HDDに保存されたままになるだろう。

インスタグラムにおいて、僕は、撮影した写真を全て、撮影した順番に、アップしている。
撮影した時に、手ブレがひどかったりして、気に入らなかった写真は、撮影してすぐに撮り直して、失敗した写真を削除しているけど、そうしなかった写真は、どれがいいか、悪いか、気にせずに、アップしているので、撮影してしばらく経ってからの選定はしていない。

iPhoneのカメラを用いての撮影は、作品だという意識がない。
なので、殊更に、「いい写真」を撮る必要はなく、何が「いい写真」なのか、考え続ける必要もない。
そして、毎日、最低五枚はアップし始めて、僕が撮影している写真が、僕がインスタグラムでフォローしている人たちの写真とは異なっている、ということに気付いた。
僕は別に、特別なことをしているわけではなく、特別な写真を目指しているわけでもない。
ああ、違うな、ということに気が付いて、どこがどう違うのか、とか、どうして違うのか、ということに興味はないので、ただ、多分、違うんだな、と思うばかりである。

今日は、昼に、自宅でPCの仕事を仕上げて、それから、近所の家電屋で、一時間ほどマッサージチェアでマッサージを受けて、スーパーで買い物をして、買ってきたレトルトカレーを昼御飯に食した。
マッサージチェアに座っている時に、現代詩フォーラムで作品を投稿していた時のことを思い出して、僕はやはりSNSに向いていないな、と感じた。
現在、僕は、インスタグラムとサウンドクラウドで、写真と曲をアップしている。
そして、いいね! のボタンを押してくれる人たちが何人かいる、という状況なのだが、この、いいね! のボタンを押してくれる人たちの半分ぐらいが、外国人で、すなわち、日本人ではない。
言葉を介さず、写真や曲などの作品だけによるやりとりは、そして、日本人ではない、外国人の感性は、僕には新鮮で、ドライで、嫌気が差す、ということが、今のところない。