続・写真について 第十二回

続・写真について 第十二回

以前、離人症について、考えていて、離人症を何とかするには、自身の内にあるもののあわれに素直になることだ、と考えていた。
今でも、それはそうだろうな、と考えているのだが、離人症である苦しみと、自分を曝け出して孤独でいる苦しみと、どちらが辛いのか、僕には、後者の方が辛いのではないか、と思える。
あるいは、これらは、質の異なる苦痛なので、比較するべきことではないのかも知れないが。

近頃ずっと、いわゆるガーリーフォトに対して、違和感があって、正直に言えば、苛立っているので、そのことを軽く考えてみる。
僕が、ガーリーフォトに違和感があるのは、自分がブサイクではない女である、ということに、胡座をかいているからである。
そういう女が、自信がない、とか、自分のことが嫌い、だとか言っているから、僕はついつい、苛立ってしまう。
なんだかんだ言って、自分のことを肯定しているじゃないか、男社会の中の女である自分に価値があることを分かっていて、それを利用出来るだけの賢さ、処世術が身についているじゃないか、と。

それは、あなたのことでしかない写真で、平気で、あなたは、あなたのことしか、写真に写さない。
あなたの周辺のことやものも、あなたの延長線上にあり、それをあなたはあなたの色に染め上げて、自分の都合で歪めて、従って、あなたは、あなたが他人から好かれること、愛されることしか考えていないことが、写真を通じて、分かってしまう、この保身の、保身でしかない写真の中には、決して格好良くない男の僕は、綺麗に排除されているから、僕は、そのような写真に対して、あ、そうですか、とか、良くて、お上手ですね、ぐらいしか言うことが見つからない。

本当の悲しみは、悲しみを通過しない。

逆に考えてみれば、僕の写真には、あなたが入り込む隙間はないのかも知れない。
だから、何だこの写真、と思って、見なかったことにすることも考えられる。
そういう意味では、お互い様なのかも知れない。
あなたはただ、孤独であることにいじけて、道端の草花とか、ゴミを撮っているだけじゃないか、と思っているのかも知れないし、あるいは、道端の草花や、ゴミばかりを写真で撮って何がいいんですか? と首を傾げるかも知れない。
そんなものは、可愛くないし、美しくもないし、価値や意味があるようには思えない、と思われても、仕方のない写真ではある。

無我夢中に撮っている、ということは、我が無くなっている、ということでもあるだろう。
つまり、僕は、撮影している時に、撮影者の意図を出来るだけ、なくすように心がけている。
それは、ただ、撮影をする上で、邪魔になるだけだからだ。
もののあわれ、は、我を問題にはしない。
そこにはすでに、自我が含まれている。
超自我、と言われているような自分も含めて。
そんな風に撮影していると、自分はただの風になったり、音になったりする。

僕は、撮影している時、悩んでなどいない。
僕の写真に写されているものたちを、誰が喜ぶというのか、ふと、我に帰って、虚しくなるだけである。
それならば、綺麗に写されているであろうあなた自身の写真(セルフポートレート)をネットにアップして、他人に見てもらった方がいいのかも知れない。
なぜなら、女の体(化粧をした顔を含めた)、あるいは、女性性は、多分、多くの人を不愉快にはしないだろうから。
さらには、ガーリーフォトを志向し、憧れている人の胸をときめかすだろう。
そこには、確かに、不潔な生理は写されていないし、不気味なものもない。
そういう意味で、見る人の心を脅かさない。
男社会という枠の中に収まっている女というものが、社会を脅かすことなどない、だから、それはすべからず、ブサイクなもの、ブスではないのだ。

ガーリーフォトには、悪意がある。
その多くは、無自覚な悪意である。
その悪意の元凶は、勿論、男社会にあるのだが、この悪意に自覚的であれば、今のあなたを取り巻く環境、社会的同一性が瓦解する可能性は多いにある。
実際には、瓦解しかかっていることも多々ある。
だから、自分のことが嫌いだし、自信がないのだ。
そのことに自覚的であったとしても、それは、勝ち目のない戦いを強いられるだけであろう、残念ながら。
世の男たちから、ブスだというレッテルを貼られて、おしまいである。
だったら、ブスにならない方が、やはり、賢明ではあるのだ。

離人症の原因の一つには、このようなことも関係している。
それで、ならば、どちらを選ぶのか、という選択を引き伸ばして多くの人は生きているのだが、もし、どちらかを選ばなければならないのだとしたら、あなたは、自覚するか、無自覚のまま眠らせておくか、どちらを選ぶであろうか。
知らぬが仏、という言葉もある。
知る、ということの多くは、悲しみを促す。