続・写真について 第十一回

続・写真について 第十一回

暑い。

だんだんと、写真について、小難しいことを考えるようになり、気を抜くと、ここで書いてしまいそうだから、注意している。
書いてもいいのだが、僕が想定している読者、あなた達にとって、写真を撮る上で必要ではない、あるいは、足を引っ張るものであることは分かっているので、書かないように気を付けている。
それでも、このシリーズを続けるのならば、通ならければならない道、考えがあるので、そのことを、遠回りして、書いてみよう。
僕は、このシリーズを、全二十回になるだろう、と予想している。

僕は、ふと、才能がない、ということはどういうことなのか、今日、考えていた。
世の中にはきっと、才能がないことで、悩み苦しんでいる人がいることだろう。
僕は、恋愛の才能がない。
そのことの孤独が、僕の心を蝕み続けている。

僕は、詩の才能のなさに悩んでいた時期がある。
もう忘れてしまったが、写真の才能のなさに悩んでいた時期もあるだろう。
それでも、自分の恋愛の才能のなさ、恋人がいない、あるいは、長続きしない、ということの苦しみに比べれば、取るに足りないことであった。

僕は、つい最近まで、決定的に勘違いしていたことは、優れた作品を作り出せれば、その作品を認めてくれて、惚れてくれる異性が現れる、と思い込んでいたことである。
そんなことはなかった。
僕の作品を作る最大の同期は、孤独で、孤独からさよならする為に、作品を作り続けていたのだが、もはや、僕の写真では、評価できる相手がなかなか現れないであろうことが、実感として、分かってしまった。
理解する、というのは、根気がいることで、根気がなくても理解出来ることとは、自分と親しく近いと思えることであった。
うすうす分かっていたことではあるのだが、今年の春まで取り組んでいたポートフォリオ、そして、現在、インスタグラムにアップし続けている写真たちに、具体的な相手、あなたはいない。
つまり、誰かから理解されたくて、撮影して、制作しているわけではないのであった。

昨日、ポートフォリオのプリントをまとめた二冊のファイルを簡単に見返した。
何も言うことはなかった。
これ以上のポートフォリオを、僕は手掛けられない、と思った。
そして、今、iPhoneのカメラで撮影していて、さらに写真が自由になってきている感覚がある。
これ以上、作品の質を高めたとことで、それを理解出来る人は見当たらないというのに。
それでも、撮影を辞めないのは、撮影をしないと、多分、僕は死ぬからである。

弱っているのは、一度到達した地点をズラして、下降することが、今の僕には出来ない、というよりかは、したくない、というところにある。
簡単に言ってしまえば、世間に合わせて、写真作品の質を変えることが難しくなってしまった。
それは何だか、お前は孤独でいろ、と誰かから言われているようで、しんどいのである。
そんなことならば、写真の才能なんていらないから、この孤独を何とか出来る方向に進みたい、と思うほどに。

僕は、多分、一度も、深刻に、自分の写真の才能のなさに悩んだことがない。
それは、僕に、写真の才能があったからではなく、悩む必要がなかったからである。
僕が悩み続けてきたのは、誰からも理解されなかった、そのことにある。
今、僕が写真を撮る時に感じていること、感性は、拙い言葉で説明しようとしても、多くの人たちは、理解できないであろうし、理解する必要もないだろう。
これは、孤独の道である。
才能にもいろいろとある。
別にわざわざ孤独の道を進んでいく必要はあるまい。

およそ二年をかけて完成させたポートフォリオは、孤独の中に居た。
孤独でなければ、続けることは出来なかったであろう。
僕は、具体的なあなたの為に、他者に向けて、作り上げたのでなかった。
様々なあなたとの邂逅の可能性を削り落とすことを、強いてやってきた。
別に、そのこと自体は、苦痛ではなかった。
苦痛なのは、無我夢中でやってきて、それが終わってしまったことにある。
僕が今、写真を撮らなければ死ぬだろう、と感じているのは、写真を撮ることが、僕にとって、ただ、写真を撮ることではなくなかったからである。

僕には、才能がなくて、苦しんでいる人の気持ちは、きっと、理解出来ないだろう。
才能がなくても、同じレベルの人たちが、そのような人たちには、だいたいの場合、近くにいるから、それでいいのではないか、と僕には思える。
それに、僕に、写真の才能があるのかさえ、僕にはイマイチ分からない。
ただ、僕の写真は、異端なだけなのかも知れない。
全ては僕の勘違いでしかないのかも知れない。
それでも、僕は構わない。
僕は、自分の写真を他人に誇りたいわけではなく、自慢したいわけでもないのだから。