続・写真について 第六回

続・写真について 第六回

だいたい一年ほど前に、Facebookのアカウントを停止したのだが、さきほど、専門学校時代の知り合いから、Facebookの友達申請のようなメールが届いたので、一度、アカウントを再開させることにした。
それで、iPhoneのアプリをダウンロードして、設定を確認して、「友達」の近況を見ていたら、とたんにFacebookが嫌になった。
この嫌さは、いったい何だろうか。
ミクシイも多分、同様の嫌さがあるだろう。
ミクシイは、アカウントは削除していないが、しばらく、ログインして見ていない。
Twitterのつぶやきを自動的に、ミクシイに反映するように設定しているだけである。
Facebookも同様に、本名のTwitterのアカウントからつぶやいたものを反映して投稿するようになっているので、こちらからFacebookを覗くことは、多分、しないだろう。
このペンネームのも、本名の方も、Twitterのつぶやきは、いろいろなアプリなどで投稿したものを、自動的にお知らせしてくれるように設定していて、そういう意味で、きちんとしたつぶやきは避けている。
具体的な理由は、僕にも分からないのだが、強いて言えば、つぶやくようなことがもはやない。
文章ならば、このブログがあるし、このブログからしか、文章をネットにアップするつもりも、今のところない。
正直、他人の細かなプライベートまで知りたいとは思わないし、僕の細かなプライベートを知りたいと思っている人は稀有だろう。
それでも、インスタグラム、サウンドクラウドYouTubeニコニコ動画、トルネと連動しているので、僕がどのような写真を撮影し、どのような音楽を演奏し、どのような動画を気に入って、どのようなテレビ番組を録画したのか、公開しているのだから、実施のところ、かなり、細かなプライベート、趣味趣向を知らせているだろう。
これを、わざわざ、文章に置き換えるのは、めんどくさい。
僕の頭の中は、このような、自動的な機能を用いて、公開することで、かなりの部分、他人に伝えているのではないだろうか。
しかし、僕のような人間の中身を知りたいなどと考えている人間がいるとは、僕には思えない。

ブログを読むよりも、写真を見た方が、雄弁にその人のことを語っている時がある。
写真というのは、ものの見方、つまり、撮り手の価値観を現す。
感じ方、も現れてくる。
もしかしたら、僕がおよそ一年ぶりにFacebookを再開して、「友達」の近状を見て、嫌な気持ちになってしまったのは、彼らの価値観、感じ方と、僕の価値観や感じ方との間に、どうにもならない差異を認めてしまったからかも知れない。
おまけに付け足せば、Facebookへの投稿を見て、歪みのようなものを感じてしまったのかも知れない。
公開されたプライベートは、公開を前提にしているが故に、都合によって、歪んでいる。
つまり、自分にとって、あるいは、見る側も含めて、不都合なことを意図的に避けている。
この歪みが、僕には、嫌なのかも知れない。

別に僕が、自分の全てをネットや作品などで曝け出しているわけではない。
それを望んでいるわけでもない。
曝け出せばいいというわけでもあるまい。

Facebookを再開して、何人かの「友達」がいなくなっていることに気が付いた。
多分、僕と同様に、Facebookのアカウントを削除したのだろう。
また、現在でもこまめに更新している「友達」は、それほどいないようだ。
この微妙な居心地の悪さ、違和感、嫌悪感は、僕だけのものではなく、いわゆるFacebook離れは、一般的なものなのかも知れない。

思い返してみれば、僕が他人のブログを毎日、見ているのは、友人一人だけで、その友人のブログを見ているのは、仲がいい、というのもあるのだが、文章が面白い、という理由もある。
その友人は詩人なので、そういう文章だし、自分が考えていること、疑問に思っていることなどを、率直に書いている。
文章が面白い、というのは、ただ、文章力が優れているだけではなく、このような常日頃考えていること、疑問に感じていること、その内容に比例するのではないだろうか。

もちろん、Facebookで投稿されている知人や友人などの細かなプライベートを知りたいという人はいるだろうし、それを面白いと思っている人もいることだろう。
そのことに異論はない。
ただ、僕は、そうではない、というだけのことである。