続・写真について 第四回

続・写真について 第四回

最近は、昔のことが思い出されて、苛立たしい気持ちに襲われることが多くあった。
怒りの次は、虚しくなり、また、怒り、さらに虚しくなる、という負のスパイラルに足を踏み入れたようだ。
これは、夏だからなのか、いろいろな状況に影響を受けているのか、よく分からないところがあるのだが、あまり考え過ぎないことも大切だ。

死に時、というのを、よく考えている。
それは、生きるのには、理由があるはずで、今の僕には、生きる理由がほとんど見つからないから。
ポートフォリオを完成させるのは、僕の中で、一番大きな、生きる動機であり、理由であった。
ポートフォリオを写真の賞に送り、その結果を見届けることは、僕の中で、さほど重要なことではない。

今年の後半辺りから、仕事を変える必要を感じ始めているのだが、僕にとって、仕事をすることは、どういうことなのか、イマイチ分かっていないところがある。
僕は、お金がそれほど必要だと感じないので、生活していけるだけのお金が貰えれば、それで十分だし、今している仕事の半分以上は、リハビリのようなところがある。
リハビリして、挫折の苦しみは、以前よりかは薄らいできているが、さて、それでは、生きる喜びがあるわけでもなし、生きていく理由が見つかったわけでもない。

僕の周りでは、夜のお店、つまり、フィリピンパブにハマり、借金生活をしている中年の男性が何人かいる。
そういう在り方が当たり前の世界を、人伝に垣間見てきた。
僕自身は、付き合い程度でしか、そのようなお店には行かないのだが、そのような夜のお店にハマる人たちのことが理解出来ないわけではない。
すなわち、その人たちもきっと、生きる理由があまり感じられないのではないだろうか。
つまり、生きることが虚しい。
その虚しさを埋めてくれるものが、夜のお店にいる女性や、夜の世界だったのではないだろうか。

生きることの前提には、どうやら、虚しさや辛さがあるようだ。
僕だけではなく、多くの人にとって、特に、年齢を重ねる度に、喜びよりも、辛さや虚しさ、心の隙間が強くなっていくように感じられてならない。
人はそもそもが孤独である。
孤独であることが強調された時に、人の本質も明らかにされるのではないだろうか。

人生に対して、耐えなければならない。
いい風が吹いて、流れが変わることを信じながら。
耐えることに耐えられなくなったら、生きることを諦めて、死ぬことを考えるようになる。
どちらにしても、人はいつか、必ず死を迎える。
どのような人間であろうと。

そのように考えれば、他人に多大な迷惑をかけなければ、どのような写真を撮っても構わないし、自分の好きにやったらいいのではないだろうか。
何がいい写真なのか、判然としないところもあるが、もし仮に、あなたがいい写真を撮れたとしよう。
いい写真をコンスタントに撮れるようになった、と。
そのことが、一体、あなたにとって、何をもたらすというのだろう。

世の中には、いい写真を撮りたいと願い続けている、多くの、素人のカメラマンたちがいるようである。
その中には、本当に素晴らしい写真を撮り続けている人たちもいる。
しかし、その多くは、ただ、願い続けているだけである。
写真について、ちょっとかじった程度だったり、カメラを磨くことにいそんだりしながら。
そのどちらかが、本当の意味で、優れているのか、劣っているのか、今の僕には、よく分からない。

世間の人たちの中には、集まることを好む人が大勢いるようだ。
写真でいうと、フォトサークルというものがある。
撮影会、というのもある。
女性モデルを撮影する為の撮影会(その多くは、モデルが水着だったり、ヌードだったりする)、というものに参加したい男性の気持ちは分かる。
例えば、そうではなく、公園で撮影会をする、というイベントに参加する人たちのあり方は、僕が撮影で取り続けた態度とは大きく異なるのではないだろうか。
僕は、一人で撮り続け、今も、一人で撮り続けているからであった。

そもそも、僕がどれぐらいの写真を撮っているのか、よく分からない。
どうせ、大した写真ではないだろう。
世の中には、様々な写真があり、様々な人々がいて、自分なりに写真と付き合っているのだろうから、それでいいのではないか、と今の僕は感じている。
撮影会に参加する主な目的は、写真を撮るきっかけ作りと、写真を好きな人たちとの交流の二つの目的があると思うが、そういうのが楽しいのであれば、それはそれでいいことであろう。

かなしい時は、うんと、かなしみを味わえばいい。
虚しい時は、うんと、虚しさを感じていればいい。
何もやる気が起きないのならば、何もしなければいい。
そうしたところで、どうにかなるわけではないし、足掻き苦しんでも、だいたいの場合、どうにかなるわけではない。
写真の味わいや感じというのは、喜びであろうとも、そういうところから現れるのではないだろうか。