写真について 最終回

写真について 最終回

今回で、写真について、という文章は終わりである。
最終回の今回は、特に写真について、書きたいことはない。
ロゴスのことなど、書きたいことがないわけではないのだが、それは、今回の流れの中では不自然になるし、正直、書きたい、というよりは、今回の流れの中では省略した要素の一つである。
ロゴスのことを説明しなければ、暗喩の話は唐突に聞こえる可能性があるのではないか、と、最近、インスタグラムを始めた友人たちの写真を見て、思ったのだ。
ロゴスには、ハイデガーさんの存在と時間を読んでいると、様々な意味が過去の哲学書によって、定義されてきたらしいのだが、ここで僕が強調したいのは、ロゴスとは、語ることであり、また、見させることである、ということであった。
写真は常に、他人に何かを見させることであり、その意味で、語ることに近い。
写真には、言語的要素がある。
そして、文章における暗喩の手法は、どちらかと言えば、難解なものに属しているだろう。
特に、日本の戦後詩は、暗喩をより高度化してきた経緯がある。
その多くは、語られてきた、あるいは、語られるであろう文脈を意図的に外し、混沌とした自分たちを取り巻く状況を指し示す為に、混沌としたまま、意味が剥がされて、言葉そのものを剥き出しに提示する手段として用いられてきた、と僕は捉えているのだが、僕が写真でしたかったことは、そうしたことではなかった。

写真を四万枚以上、撮影した僕が、ポートフォリオを完成させて、今、そこはかとなく感じていることは、生きることの虚しさであり、もはや、為すべきことをやり遂げて、死に時について、ずっと、考えるようになっている。
僕がどうやら勘違いしてきたことは、写真をより突き詰め、先鋭化させることが、すなわち、生きることの永続的な充実感、幸せや喜びには必ずしも結びつかない、という事実であり、もし、人が、生の喜びを謳歌することを望むのであれば、些細な何かを見つけ、それに依存し、持続される努力に力を注ぐことなのではないだろうか。
それは、先鋭化させる努力ではなく、すなわち、鋭くさせ、先へと進む努力ではなく、鈍い方がいいことは鈍いまま、適度に先へと進み、決して、前線には赴かないことだと言って、差し支えがないように感じている。
実感として、正直に書くと、人の多くは、先鋭化を目指してはいないだろうし、感性を研ぎ澄ますことを望んではいない。
望まれていることは、一時の清浄であり、緊張を緩和するユーモアであり、親和的なコミュニケーションなのではないだろうか。
だとしたら、写真もまた、見た人を一時の清浄へと導き、生きる上で強いられている緊張を緩和して、親和的な語りを有している写真を目指す方がいいように感じている。
それは、先鋭化させることではなく、後ろめきなことでもない。
多分、肯定的な、人間の現状に適した、ほどほど生きることに前向きな、はにかみに近い写真なのではないだろうか。
曖昧なことは曖昧なままにして、そっとしておくことが優しさというのなら、人の多くは、他人のそのような優しさを求め続けている。
これは、暴露することではなく、すなわち、ロゴスではない。
暴露しない程度の暴露、暴露しても支障をきたさない程度の暴露、その範囲内の、互いの符丁に合わせた、予定調和的な、今風に言うと、空気を読んでいる写真がふさわしいのだろう。
そして、それは写真だけではなく、人間像にも当てはまる。
何かをするよりかは、何かをしない方がいい、これ以上に余計な傷を増やしたくないのならば。

何かをするということは、何かを手に入れようとしている、ということに他ならない。
かなしみはいっそうのかなしみとして、あなたの胸に去来することだろう。
そのかなしみを慰めることは、かなしみを自覚することではなく、かなしみから目を逸らし、はにかむところにある。
偽物のはにかみは、顔面ばかりではなく、自身の心の表面にも張り付くようになり、この化粧のようなはにかみが、汗や涙や雨などで剥がれやしないか、と恐れる気持ちが強まってくる。
しかし、何の心配もいらないのだ。
なぜなら、人はあなたのはにかみを見ているのであって、あなたのはにかみの裏にあるものをあえて知ろうとするものなど、この世にほとんど存在していないからだ。
ものを知ることのかなしみ、ものを見ることのかなしみ、ものを感じることのかなしみとは、だいたいにおいて、そのようなところにあった。