写真について 第四回

写真について 第四回

写真というものは何だろうか、という疑問に対して、僕は、まず第一に、見たものをプリント(デジカメならば画像データ、と言ってもいい)に置き換えることで、自分や他人が、自分が見て写し撮ったものを何度でも見返すことが可能になる手段、だと考えている。
例えば、自分が常日頃考えていることや、ふとした思いつきを残すのに、現在ではブログやSNSなどで文章を打ち込むことが当たり前になっているように、写真というのは、自分が実際に見たものを、残すことに優れている。
これは、人が思考するのに、言葉が用いられているから、自分の考えを発展させ、残すのに言葉が向いているのであって、様々な意見はあるだろうが、自分の考えがはたして他人にとっても正しいかどうか、判断を他人に委ねるために、ネットで人目に晒している一面を、多くの人は否定することは出来ないのではないだろうか。
もし、自分の心の中にある考えに対して、他人の判断に委ねたい、また、他人とどのように同じで、どのように異なるのか、興味がなければ、人目に晒そうという気持ちにはなかなかなりにくいのではないか、と僕には思われる。
写真とは、自分の視覚認識を、カメラを用いて、イメージとして定着させる、というところに、特異性(例えば、絵画などと比べた場合)が認められる。
当然、写真とは、それだけのものではなく、視覚認識を超えた新しいイメージを作り込んだり、創造することも出来なくはない。
写真には様々な手法があり、様々な撮影や処理に関しての技法があり、デジタル処理を施すことで、今までの写真では起こりえなかった視覚表現の幅を広げている。
これが、すなわち、様々な意見、というもので、僕は、別段、そのような意見や写真に対して、異議申し立てをしたいわけではない。
ただ、僕は、あまりそのようには写真を使ってこなかったし、今後も、多分、イメージを作り込むということに積極的にはなれないだろう。
確かに、全ての写真はヤラセである。
しかし、今、目の前で僕が見えているものの全てが(人為的な)ヤラセだとは思えないのだ。
自分に見えているもの全てが、果たして、ヤラセなのか、あるいは、僕だけの妄想に過ぎないのか、そのことには大いなる疑問がある。
つまり、人は孤独ではいられない。
自分が見ているもの、見えているものが果たして自分だけが見えているものなのか、他人にも同じように見えているのか、そうではなく、他人には違うように認識されているのか、興味があるのではないだろうか。
ここには、一つの落とし穴がある。
そのような素朴な興味が、写真を撮る動機の一つにはなりえるが、あまりにも他人の評価に重きを置いてしまえば、他人の目を先読みして、他人の目を自分自身で想像し、自分の中にある他人の目をなぞるようにものを見て、写真を撮ることになる可能性があるからだ。
ここには、他人と違う、ということを、すなわち、自分が孤独に陥ることに対する純粋な恐れがあるのではないか、と思われる。
多くの人々が陥っている没個人性の原因の一つには、そのような恐れ、他人に対しての配慮が強く作用しているのではないだろうか。

僕は、四万枚以上の写真を作品として撮影していく中で、視覚認識とは、目の前のAを、ただ、Aとして見ているのではなく、Bとしても、あるいは、Cとしても見ていることに気が付き始めた。
これは、AはAではなくBである、というものではなく、並行的に、Aと同時に、別のものであるBを、さらには、Cを、時には、DやEなどを、頭の中で重ねなければ、視覚を認識するということが不可能だと感じたからである。
ここでいうBやCは、空間だけではなく、時間的な要素(自分が持ち合わせている歴史性、と言ってもいいだろう)が絡み合っている。
また、音や臭いなどの、視覚以外の感覚が、視覚に影響を及ぼしていることは、多々あることだろう。
人の目には、目の前のAは、並行的に、BやCと重なり合っている。
重なり合う複合的なイメージの中から、人は、一つの像として、視覚を結合させている。
視覚における認識とは、様々に混ざり合う混沌とした現実から、自分の心か脳で半自動的な選択がなされたあとの整合的に結合された一つの像なのではないだろうか。
僕はそのことを、暗喩だと言っているのだが、人は本来、様々なものを、一つのものに見ている、見えている筈なのだが、様々なものが同価値として、並行的に見えてしまうと、整合性に欠け、生活に支障をきたすので、ほとんど無意識の内に、社会的な、あるいは、生存における必要価値によって、余分や過剰なものを削ぎ落とし、見えないものとしているのだと、僕は捉えている。
これが、全ての写真はヤラセだという僕なりの根拠であり、人は、そのように視覚認識をしていると考えているのだが、視覚の複雑な心理的な作用について敏感になるにつれて、目の前のものの見え方が、変化して行くのではないか、と考えている。
また、心理的な作用によって、視覚認識が変化して行くのならば、時間や日によって、目の前のものの見え方も、当然変わっていく筈である。