写真について 第三回

写真について 第三回

もののあわれを説明した際に、何だってもののあわれだと言えるのではないか、と僕に言った人がいる。
心が感動したら、それはすなわちもののあわれだろう、と。
僕はそのような捉え方には懐疑的で、もののあわれとは、自分の心のあり様ではなく、心がある、という事実に到達することだと思っているのだが、そのことをきちんと説明することは難しい。

例えば、好きなドラマ、映画を見たとする。面白かった、とか、悲しくて泣いた、とか、そのような反応が心に起こり、それが即ち、もののあわれだと言われると、それはちょっと違うのでないか、と僕は思う。
その面白さや悲しみなどが、自分の心を現し、世界を感じることが出来たのであれば、それは、もののあわれ、と言うことが出来るだろう。
それは、面白かった、とか、感動した、というたった一言の言葉では現しきれない体験であり、自分の心のあり様を感ずることではなく、自分の今の心のあり様を含めた、ある、ということを実感することではないだろうか。

世界は既にある、自分も既にある、ある、という点において、差異はない。
ある、ということは、実存であり、絵空事ではあるまい。
心が触れて動く様、というのは、確かに、何かが、自分の心に触れて、自分の心を動かしたのだ。
その瞬間、人は、その、何かと同化する。
同化して、対象となるものやことがある、と感じ入って、すなわち、自分があるのだと理屈ではなく、実感することではないだろうか。
それは、あり様を含めた「ある」であり、あり様というのは、現在の状態を意味するが、この現在の状態を含めた全的な自分に気付くことが、もののあわれだと、僕は捉えている。

最初に書いたが、人は、一部分のみを認識せざる得ないので、全的なるものを認識することは困難である。
我々は、自分や自分達(社会)の都合でしかものを見ることが出来ない。
現在の自分が自覚しているか、自覚されていないかはともかくとして、今までの人生を通じて身に染み付いている都合(ものの見方)というものを超越し、時に、その都合に対して、自覚へと促す心の動きこそが、もののあわれなのではないだろうか。

それは、習慣的なものの見方、習慣的に持続していると自覚されている自分や世界を、習慣的に認識することとは異なる。
今、我々は生きていて、世界は存在している、そのことをまざまざと感じることである。
確かに今、我々は生きていて、世界は存在している。
生きることに慣れてしまい、世界を見慣れたものだと思っているのならば、それは普段と変わらない日常でしかない。
そして、日常というものは、些細ではあるかもしれないが、常に変化している。
天候や季節、また、自分自身も歳を取り続けて、同じ自分というものはない。
それは、まったく異なる、というものではないのだが、まったく同じだというわけではない。

主に花を撮り終えてから、僕は意識せず、心の中で頭を下げている時が多々ある。
時に、ありがとうございました、と口に出して、両手を合わせることもある。
花だけではなく、つまり、生物に対してだけではなく、ただの物質に対しても、そのような気持ちを抱くことがある。
これは我ながら、不思議なことだが、僕はその時、自分を超えた、人智を超えた何かを確かに感じているのだ。
僕は特定の宗教を信仰していないのだが、自分の意思を超えている何かが自分の心に触れた感覚を受けながら、撮影をしている。
それは、太陽の光なのかもしれないし、風なのかもしれない、空気なのかもしれない。
それらは、ただ、当たり前に存在し、多分、これからも存在し続けるだろう。
それらは、当たり前に存在しているから、日常生活の中で、意識されることは少ないが、それらこそが、自分たち生物の生存を大きく関わっている大いなる自然である。
僕の中できっと、そのような大いなる自然に対しての敬意の念が、写真撮影を通じて、見ることによって生じたのだろう。

花というのは、見れば見るほどに不思議なものだ。
何が一体、僕の心が、僕の目が、花に惹きつけられているのか、僕には分からない。
花とは花である。
僕はそのような不思議を解き明かしたいとは思わない。
それならば、いっそのこと、僕の前世は蝶々とか、虫だったから、花に惹かれてしまう、と思っていたい。
僕はいつでも、不思議を解明したくて写真を撮っているのではなく、気になってしまうから、そこに目が惹きつけられてしまうから、何度でも撮ってしまうに過ぎない。
もし、そのようなものがあなたにもあり、それをただ無心に撮ることが出来るのであれば、「いい写真」になるのではないだろうか。
何も難しいことではない。
確かに人生には、あなたを待っている何かがある。
言い換えれば、人生があなたを待っているのだ。