写真について 第二回

写真について 第二回

僕のポートフォリオが、実際のところ、オリジナリティに溢れているのか、誰にでも撮り得る平凡な写真群なのか、僕自身はあまり興味がない。
ただ、二年未満に四万枚以上の写真を撮り続けたことによって、何か特別な感覚や、生活上の幸せが生まれたか、考えてみると、現在のところ、ほとんどそういうものを発見することが出来ない。
つまり、僕のように写真に対して取り組んでも、周囲からの評価はあまり得られず、孤独で、やってもやらなくても、どちらでもいいのではないか、むしろ、こういう制作作業は孤独の中で行われるので、やらない方がよほど社交的かつ功利的なのではないか、とさえ思われる。

思い返してみると、ポートフォリオの制作を終えて、分かったことは、人間世界とは離れたところにある、自然世界とでも言おうか、無為の世界があり、僕は、そちらの無為の世界に目を向けて、この身を寄せていたのではないか、という気がしている。
毎日通る道、見慣れた風景、そういう中に、日々の変化があり、それは、天候や、季節などによって、変化していく。
僕は、そのような些細な変化、光や色や形の移り変わりに心を奪われてきた。
これは、人間世界において、ほとんど役に立たない、多くの人々はきっと、どうでもいいが故に、目も向けないことなのではないだろうか。
花が咲いている、その花が一般的に美しい内は、人の目を惹きつけるであろうが、枯れてきた花をまじまじと見つめ、それを写真に残そうとする人はあまりいないであろう。
僕は、咲き誇る前の花も、咲き誇っている花も、枯れようとしている花も、枯れた花も、それぞれに、目を奪われる何かが宿っている、と思う。
花は花である。
僕は、花に目を奪われているのであって、その花は、日によって、変化していく。
この変化に気付く僕の心は、その時、花が発している声に満たされている。
花というのに美しさはない。
それは、人間が勝手に決めつけている一つの価値観であり、例えば、虫にとって、花はそのようなものではないであろう。

花には花の声がある。
それは、毎日の変化の中で生じる一瞬のきらめきのようなものなのかもしれない。
その声に、僕の心は、はっとさせられる。
花が光に満たされ、風に揺られている。
花は、ここにいる、ということを、発している。
花は、ただ、そのように、ここにいるのであり、僕もまた、ただ、ここにいるのだ。

存在とは、ある、ということである。
ある、ということ、ここに花があり、ここに花を見つめて、はっとなっている僕がいる。
それ以上でも以下でもない。
ただ、ここにこうしてある、あるということに、はっとなる。
この時、花は美しくない。ただ、あるのだ。
ある、ということが美しいのであり、掛け替えのない存在として、そこにある。
花とは、掛け替えのないものであった。
花は確かに存在し、生きている。
花はただ、花であった。
僕がただ、僕であるように。

同じ景色を見ているようでも、実際は、同じ景色というものは、同じ景色ではないのかもしれない。
世界は光に照らされ、日々、変化していく。
世界は光に照らされ、光に満たされている。
これを当たり前だと思うならば、あなたの目は、同じ景色を写し出すだろう。
もし、そのことに驚嘆するならば、同じ景色など存在しないだろう。
光を見ることが出来るならば、光というものが、世界を照り返し、この目に飛び込んでくる、そのことに驚かざるを得ない。
光というものには、表情がある。
光とは、やはり世界における最大の神秘なのではないだろうか。