写真について 第一回

写真について 第一回

写真について、今更ながらに考えているわけではなく、最近、僕は、存在について、改めて考えている。
そして、存在について、言語として書きたい、という欲求が増しているのだが、どうも、言葉では、存在に対しての答えもそうだし、適切な質問も、書けなくはないかもしれないのだが、かなり困難だという気配が濃厚で、とりあえず、二年近く取り組んできたポートフォリオを撮り終えて、そこから得られたこと、感じたことを振り返り、喋るように文章を書いていくことにした。

僕は、二年未満で、合計四万枚以上の写真を一つのポートフォリオの為に撮影した。
このポートフォリオのことは、興味がある人は、実際に写真を見てもらえればいいし、言葉であれこれと説明する気にもなれない。
言葉で書けるものならば、僕は言葉で書いたであろう。言葉にならないから、写真を撮った。
言葉にならないものを撮ってきた、とも言えるかもしれないし、言葉にならない些細なものばかりを率先して撮ってきた、のかもしれない。

僕は、写真を撮る上で、もののあわれ、を意識してきた。
自分の目で見て、自分の心が動いた、それを直接、写真に残したい、と。
その為に、僕は、いわゆる写真の技術、センスというものを捨てる必要があった。
つまり、写真撮影の技巧を感じさせるようなもの、きをてらったようなものは撮らないように気をつけてきた。
なぜなら、それは、すでに、写真的だからであり、写真的であるがゆえに、自分の目の見え方と異なるはずだからである。
自分の目が世界に驚嘆している、その自分と目の前のものの間にカメラを挟み、シャッターを切る、そういうイメージで、四万枚以上を撮影した。

これは、なかなかに難しいことではあった。僕を含めて人は、目で見たものを写真で写す時、無意識の内に、修正をしている。もうちょっと言うと、人は、自分の目をそれほど信じていない。だから、カメラを構えた時、実際の自分の目をそのまま再現しようとはせず、写真的にいい方向へ修正しようと、意識的にか、無意識的にか、反応してしまう。
言い換えれると、遊び心を加えてしまう。
この遊び心は、ユーモアと言ってもいいだろうけど、僕は、自分のユーモアを出来るだけ排除するように試みた。
ユーモアというのは、十分に人間的で、人間の営みに不可欠なものであるが、僕が写真で残したかったのは、人間的なユーモアではなく、自分の目が捉えたありのままの存在、もののあわれだったからである。

僕は、コンパクトデジタルカメラを用いて、出来るだけ写真的な技巧を使わず、無心にシャッターボタンを押し続け、連写してきた。
だから、こんな写真は誰にだって撮れるはずだと思っていたのだが、実際、完成させてみると、これらの写真を、真似して撮ることは困難だと感じるようになった。
そして、これらの僕の写真作品のような写真を、僕は見たことがない。
つまり、言い換えれば、誰もが、僕が今回、撮影した態度を一貫させれば、自分にしか撮れない、オリジナル性の高い写真が撮れるのではないか、と思うのだ。

ここで一つ疑問なのは、果たして人はオリジナル性の高い写真を自らの手で撮影したいと願っているのかどうか、ということである。
自分というのは世界で一人であり、自分の目も同じく世界で一つである。
その目が捉え、自分の心が動いたものを工夫せず、そのまま撮れば、すなわちそれがあなたの写真になるはずなのだが、それが撮影者であるあなたが臨んだ写真になるとは限らない。
つまり、自分の意に反して、人はものを見ているし、ものを考えているし、ものを捉えている場合が多い。
難しい話ではない、本当の自分などみっともなくて、人の目に晒したくないだけの話であろう。
自分で自覚などしたくはない自分、というものを人は隠し持っているものだ。
そして、オリジナリティ、個性、本当の自分などというものの大半は、なりたい自分、理想的な自分から遠ざかったところにある、身も蓋もないものなのであった。

存在というものは、全的であるはずなのだが、人は、全的に存在を把握し、認識することが出来ない。
そこには、見過ごしているもの、気がつかないもの、見なかったことにしたいものが含まれている。
人の目というものは、僕も含めて、かなりいい加減なものだ。
多分、いい加減でなければ、僕たちは、この世界でものを見るということに耐えられないのであろう。
思い込みも含めた錯覚というものは、恩恵なのかもしれない。