疲れているのか。

疲れているのか。

ここ数日、かなり落ち込んでいる。昨夜は、このままでは病気になる、と感じたので、なるべく考えないように、早めに寝た。
今日も、あまり気分は優れなかったが、休日で、友人と二人で、ベトナム料理のランチをしたので、気分が優れてきた。

気分が優れない原因は、仕事の肉体的な疲労ポートフォリオの完成及び賞へ応募をし終わったこと、三枚目のCDの完成による精神的な疲労があるかと思われる。
仕事の疲労は寝てどうにかするしかないのだが、作品を形にするということは、どうやら、とても疲れるようだ。
どうしても気分が滅入ってくる。
写真にしても、音楽にしても、これ以上のものは作れないんじゃないか、と自分で思うぐらいの完成度だったので、そういう時は、余計に気分が落ち込む。
何ていうか、報われなさのようなものを切実と感じて、死にたくなる。

今、インスタグラムで写真を毎日アップしている。
サウンドクラウドの方は、RECシリーズに取り組み始めて、二曲をアップした。
RECシリーズは、電子キーボードだけを用いて、その演奏を録音したもの。
インスタグラムの写真は、本気では撮っていないし(何も撮らないとしんどいので撮っている)、RECシリーズも、何もしていないとしんどいので、練習を兼ねて、初心に立ち返り、シンセサイザーを用いず、鍵盤でシンプルに弾いたものを二十曲ほど録音して、Y.T.の二十曲をCDにして、RECシリーズとカバーソング(伴奏なしで歌って録音したもの)をCDにして、二枚組のCDにしようかと考えている。
この二枚組のCDは、ファンディスクとでも言おうか、完成度が高くないので、自分用と友人二人のみに、三つ作る予定でいる。

形にする、というのは、因果なもので、それは、往々にして、制作している段階よりも、制作が終わった段階で、辛い感じになってしまう。
そうなってしまう理屈はよく分からないのだが、自分が生きている意味がなくなってしまうように感じられてならない。
とりあえず、インスタグラムの写真と、RECシリーズに取り組んでいる。

以前から、欲しい本があって、フランクルさんの夜と霧と、朝日選書の老子の本と、これまた朝日選書の森田療法の森田さんを扱った本の三冊が欲しくて、本屋で探したら、夜と霧が、旧版と新訳版、二冊、置いてあったので、旧版を買い求めた。
それと、ハイデガーさんの存在と時間を読みたくなってきていて、今日、読み始めた。
存在と時間は、数年前に古本で買い求めたもので、そのうち読むかな、と思っていたのだが、近頃、存在について考えるようになったので、そろそろハイデガーさんの有名な本を読んでおきたい、と思ってのことだったのだが、予想以上に読みやすく、序盤しか読んでいないが、新しい発見はなかった。
解説を兼ねた日本人の学者同士の対談を読んでみたら、存在と時間は未完らしく、肝心の存在そのものについては言及されていないらしい(ここでの言及とは、定義されていない、という意味において)。
僕の予想だが、存在と時間は、存在について考える存在者(現存在)と存在を巡る前提までが書かれた本なのではないだろうか。
さらに予想されることは、僕が悩んでいる存在についての認識や定義を解決的に示した新たなる疑問、回答というものは、現在までの哲学では明らかになっていない可能性がある。
僕は学者ではないし、論理的な人間でもないので、存在について、もののあわれ、と、空即是色、の二つの言葉で言っているのだが、もしかしたら、今の人類の存在を巡る思想的な到達点というのは、だいたいにおいて、ここぐらいなのかも知れない。
つまり、きちんとは分からないけど確かにあるもの、と。
これは、神秘的であったり、深淵であったりするのだろうけど、人間では計り知れない何かが含まれているようだ。
僕は、存在とは、簡単に言えば、世界だと考えている。
これは、人口的な世界だけを指し示しているのではなく、自然を含めた、宇宙も含めた、天、とでも言おうか、老子は、道(タオ)と言っているようだが、つまりは、森羅万象のことである。

昨日、たまたま、友人のゆしらくんがネットにアップしている写真を、久しぶりに見た。
新たに一枚、写真が追加されているようであったが、全体的に、僕が何か言う写真ではないな、と、やはり、思った。
別に僕などが、あれはいいね、これはよくないね、とわざわざ言うまでもなく、写真だったからである。
ただ、僕が思い込んでいたよりも、一層、写真であったことに驚いた。
写真に対して、僕は何かを言おうという気持ちがない。
言えば、ゆしらくんは、自分の目で見えているものやことに対して、慎重だというぐらいのものだろう。
丁寧に捉えようとしている、と言い換えても、同じことだ。
ゆしらくんは、カメラというものを、楽しんでいるが、信用などしていない。カメラやレンズを、過信してはいない。
だからこそ、それらは、写真になり得ている。
そういう人間にとって、カメラは、道具的な趣味性を別にすれば、何だって構わないのであり、使いやすければ、使いやすいほどいい、というぐらいのものであろう。

ちょっと技術的なことを述べさせてもらえれば、僕がゆしらくんにあげたコンパクトデジタルカメラよりも、ゆしらくんが持っているiPhoneのカメラの方が、色味や濃度の自動調整に優れている。
さらに、インスタグラムのフィルターを用いれば、より一層、あまり苦労せずに、自分が求める濃度と色味に近づけることが出来るであろう。
つまり、彩度を落としたり、モノクロームにすることが出来る。

iPhoneHDRの機能を使いこなせれば、濃度に関して、人間の視覚認識に近いものが写真に残しやすくなる。
使いこなせれば、と言ったところで、やるべきことは、カメラブレしないように、きちんとiPhoneをホールドしてシャッターボタンを押す、というぐらいのものなのだが。
言ってしまえば、自分の目に嘘をつく必要はない。自分の目にカメラを合わせばいいだけのことである。