草案

草案。

トークイベントで僕が語りたいことは、三つある。

もののあわれについて

離人症について

・暗喩について

これらは、リアリズムについて、という点で、共通項がある。
これらは、実際にゆしらくんによく話したことで、ちょっと飽きてきたところがあるのだけど、結局、これらでしかないから、語るべきことはそれぐらいしかない。
一枚一枚の写真についてのコメントも、ほとんど全部話せるから、内容に関しては、不足することはないだろう。
一枚一枚の写真を言葉で説明できるぐらいは自分で見返してきたし、それは、作者としての責任だと思うから。

もののあわれというのは、心が感じて動いている様、であって、僕は、自分の目で見て感動したものと自分の間にカメラを挟んで、自分の目に忠実に撮影するように心がけた。
自分の目にカメラのレンズを近づける為に、写真的な技法は出来るだけ表に出さないように気をつけた。
上手い下手ではなく、自分の目が感じたものに近い写真になればよかった。

離人症というのは、今の若者の多くが抱えているであろう深刻な問題で、その辺りのことは、橋本治さんの、いま私たちが考えるべきこと、という本を何度も読んで、そういうことだろうな、というのがあるのだけど、この本が難解なんだ。
そんな簡単な問題ではないし、話を聞いてどうにかなるものでもないな、というのがあるのだけど、自分のことを考える時に、自分のことを考えるか、他人のことを考えるか、実は、自分を自分で考えた時、人は、二つ以上の自分を抱えている。
それらの幾多ある自身のイメージの混乱が離人症を引き起こしているのではないか、と僕は考えている。
自分のことを考えているつもりが、他人のことだったり、他人のことを考えているつもりが、自分のことだったり、そうなって、自己同一性の欠損が起こるのではないか、と。
それの解決方法というのは、もののあわれにあるのではないか、と僕は思っているのだけど、つまり、感動と衝動に従う、ということだけど、これは本当に難しい。
でも、作品なんて、それでしかないからね。
感動した体験と、作りたい、見たい、という衝動。
簡単に言うと、バカになればいい、ということなんだけど、なかなか人はバカになれない。

暗喩というのは、AはAであってBでもある、Cでもある、ということで、人間の視覚は暗喩的だということに、写真を撮っていて気がついた。
直喩というのは、AはBのようだ、ということで、これは、比較対象しているのに対して、暗喩は、イメージの重なり合う感じ。
人は目の前のものを、イメージの重なり合いで認識しているのではないか、と僕は考えている。
それを整合する為に、直喩というのはあるのかも知れない。
比較対象というのは、AとBを比べているわけで、そういうロジックの方が分かりやすいだろうね。

ここからは蛇足。
どうもいろいろと写真を見ていると、トーンが分かっていないんじゃないか、と感じることが多い。
トーンが白飛びしていたり、黒潰れしていたりすることが多いから。
デジタルフォトは濃度や色、コントラストを加工したり出来るし、インターネットの影響などもあるかも知れないけど、トーンにこだわっているな、という写真はあまりないかも知れない。
写真において、トーンはかなり重要な要素なんだけどね。
文章でいう、文体のようなものだから。
このトーンは、撮影するカメラで違うから、カメラを選ぶ時点で、どのトーンが得意なカメラか、分かっていないといけない。
僕はリコーのR8とR10を使ったけど、それはもう、カメラとずっと付き合って、カメラのホワイトバランスなどの癖は体で覚えたから。
そして、まったく画像を補正していない。
測光のやり方を変更したぐらいで、特別に変わったことはしていない。
それであれらの色が出ているんだから、僕としては満足している。
暗部のノイズには、コンパクトデジタルカメラの性能の限界を感じたけどね。

あと、特に理由がないのなら、連写モードで撮影をした方がいい。
なぜなら、一枚でも多く撮影することは、けっこう重要なことだから。
そして、気になったものがあったら、いろんな角度で、数カットは撮影をした方がいいし、何度も通って、撮影した方がいい。
それをやらないと気づかないことがかなりあるから。
通うというのは大事なことだ。
同じ人を撮り続ける、とかね。
目なんていい加減だし、光が違うだけで見え方が変わってくる。
そういうのが、見るってことだし、写真の醍醐味だから。