最近、globeの二枚組のベストアルバムを聞き直したら、レベルが高くて、本当にびっくりした。

最近、globeの二枚組のベストアルバムを聞き直したら、レベルが高くて、本当にびっくりした。
音楽をやり始めた頃、勉強を兼ねて、安かったから、このアルバムを中古で買って、聞いたのだけど、音が悪いな、と思って、それっきりだった。
半年以上経って、聞き直したら、音がよかった。
この差異は、globeの、シンセとボーカルの音のクオリティがあからさまに違うところに、気がついたか、ごっちゃにしていたか、というところのような気がする。
あと、globeの音楽は、純文学のようなところがある。
暗さを感じた。それも、明らかにされない、隠された暗さが。

僕は今でも、YouTubeとかで、アニソンをよく聞いている。そういう人間は、音楽に純文学なんて求めない。
そういうややこしい、生々しい人間なんて聞きたくない。
僕は、音楽に対しては、そういう人間だから。
でも、自分で音楽をやり始めて、アンビエントとか、そんなものを志向するようになって、アニソンだけではいけないな、となって、耳がちょっとは成長したのか、globeはすごいぞ、ということが実感できた。よくこの音楽が売れたものだ、とさえ思った。
つまり、僕の耳からすると、かなり芸術性が高いことをやっていると感じるから。あと、音楽とボーカルの音の透明度がまったく合っていない。間違いなく、意図的にチグハグしたものをやっている。
ポピュラーミュージックじゃないだろう、というぐらいに。
globeの曲には、死の匂いがする。昔の僕だったら、それに耐えられなかったと思う。

ゆしらくんのブログの文章がいいね。あの調子だったら、賞を獲るんじゃないかな。あんまりちゃんと読んでいないんだけどね。ちょっと読んでみて、これはネットで見るものじゃないな、と感じるから。別のものとして見たい、というか。
僕のポートフォリオも、ネットで見れるけど、本当は違う形なんだ、というのがあって、作品に相応しい見せ方、というのがあるから。
今、インスタグラムで写真をネットにアップしていて、1/365グラム、というネット上の無料サービスを使っているんだけど、それはそれで気に入っていて、あれは、ああいうものだな、と自分では思っている。もし、展示するなら、電気フォトフレームを用いて、365枚、SDカードに画像を入れて、スライドショーで見せるかな、なんて妄想したりしてね。あれは、十人以上の規模の合同写真展にはいいだろうけど、あれだけでは展覧会はしたくないし、プリントにして展示するのも違うな、と思う。液晶モニターでいい、という感じだね。一枚一枚の写真はどうってことないし、あまりスペースを使って展示するものではなく、つまり、面ではなく点でいいや、という、点滅していく写真でいいんじゃないか、と思うから。
三時間ぐらいで写真が一周するぐらいの感じで、三時間も見続ける人なんていないだろうから、その時に、フォトフレームの液晶モニターに、パッと出てきた写真をながめてもらえばいいだろう、ぐらいのものだね。

僕としては、先日買った目覚まし時計を自分の部屋で撮影した写真が気に入っているんだけど、いいね! が一つもないね。
僕は、インスタグラムでは、ああいう写真をやりたいの。
どうってことない写真、目覚まし時計を買ったよ、というだけの写真を。
写真的な工夫なんて一つもないような、そういう写真を、iPhoneでは撮りたいんだけど、なかなか撮れない。
そんな写真、誰も見たくないだろうけど、僕は、写真なんてものはあれぐらいでいいだろう、と考えている。それでもう、十分に写真だから。フォトジェニックから遠ざかりたい気持ちだね。

結局、ポートフォリオを撮ってきて、撮らなかったものがあるから、それを撮っているって感じなのかも知れない。
作品にはならなかった写真、というのがある。
インスタグラムのフィルターでモノクロームにしたり、色をつけたりして、そういうのも、もっと気軽に写真をやってもいいんだ、というところで。
色んなフィルターを多用しているから、面として見た場合に、バラツキがあるだろう。だから、面ではなく、点だろう、という考えもある。
点滅するからいいだろう、というさ。

自分の四枚目のアルバムの曲を聞いていると、まぁ、これはこれでいいものだな、という気がしてくる。自分としては上出来かな、と。
これ以上のものを音楽でやりたいなら、時間とタイミングがいるだろうな、と思う。
あれらの曲と同じ程度のものは、多分、いくらでも作れるだろう。
道具が揃っているから。
インスタグラムにアップしている写真も、今の僕なら、いくらでも撮れる。
作品という意識がないからね。

僕は、今の詩人では、三角さんをいいな、と思っているんだけど、今のゆしらくんの文章というのは、三角さんぐらいのものが出来ているんじゃないか、もしかしたら超えているかも知れない、と思っているよ。
ただ、僕のいいというものは、ウケがよろしくないから、アテにはならないけど。
フランシス・ベーコン、日本での知名度はあまり高くないし。
ポロックもそうだけどさ。

ちゃんと読んでいないけど、いいというのは、感じる。
やっぱりどうも、ギターや絵ではないんだね。
文章がいい。
それはどうしてかというと、ちょっと残酷な言い方になるかも知れないけど、ギターも絵も、基礎能力がないと出来ないものだからかも知れない。
上手いものは上手いんだよ。そして、上手い下手を超越したものもあるんだけど、ゆしらくんが志向しているものは、どうやら、上手いが前提になっているものなんだね。
まず上手くないと成立しないところがあるんじゃないかな。

僕は、写真と、シンセでしょ。地道な練習があまりいらないからね、両方とも。
まぁ、気恥ずかしいけど、センスがあれば誰でも、ある程度はやれてしまうところがある。
センスというのは、何にしても必要なんだけど、ギターとかは、センスとテクニックがいるからね。

じゃあ文章はセンスだけでいいのか、というと、そうではない。
でも、詩というのはテクニックだけではどうしようもならない。
僕は、文章の才能がないから、よくわからないけど、詩の言葉というのは、脳や頭の働きがかなり重要なんじゃないかな。
つまり、ゆしらくんの頭は、詩人なんだね。

僕は、自分の目で写真を撮ろうとしているし、自分の耳で音を聞いている。
上手くやろう、というよりかは、そっちのほうが重要で、でも、目覚まし時計の写真はウケがよろしくない、というのが分かっているから、あまりそこには向かわない、というさ。
目覚まし時計を買ったよ、というだけの写真だから、他人からしたら、どうでもいいし、それしか伝えようとしていないからね。
何を伝えるのか、何が伝わるのか、というのは重要なことではあるんだけど、正直、今の僕も、そんなことはよくわからない。

僕がいいな、というのは、だいたい世間のウケが悪いからね。

写真は物の声を聞いて、ただそれを撮ればいいんだ、というのは、つまり、もののあわれ、なんだけど、それは、ほとんどの人がわからないだろう、とは思う。
だって、多くの人たちは、きっと、物の声なんて聞こえないから。ゆしらくんは、言葉の声を聞いているんだね。言葉そのものの声を。それは、ちょっと読めば分かる。

だからさ、globeの曲は凄いぞ、というのが分かればいいんであって。
globeの音楽、音が悪いと思っていたけど、聞き直したら、ちょっとそれは違うぞ、実は複雑なことをしているぞ、と感じられるようになればいい。
自分が分かっていないだけで、そういうもの、いっぱいあるだろうね。

写真のいいところは、光ってことだね。
僕は、晴れている方が好き。
音でいうと、雨音というのはいいね。
それは、音だね。
写真でいうと、パーっと光が当たって、眩しいぐらいの方が、僕はいいな、と感じる。
音は、僕にとって、眩しいものではなくて、視覚的なものではなくて、滲みがあった方がいいのかも知れない。
それは、感覚的なもので、好き嫌いだから、個人的なことだね。

写真を撮っていると、ああ、光だな、というのがあってさ、世界には光があって、それはいいものだな、と素直に思うから。
さらに色があって、形があって、いいな、というね。僕が伝えたいことっていうのは、とどのつまり、それぐらいのものだと思う。
いいね、じゃなくて、いいな、というさ。
いいでしょ、でもなく。
いいなぁ、とうっとり出来ればいいだけで、それは、見た目が美しいとか、それだけではなくて、言葉にならない何かだよね。何か言葉に出来ないけど、いいなぁ、というさ、そういう感じ。