完成形を想定すること

完成形を想定すること。

最近、考えていることは、作品制作において、重要なのは、完成した形を想定し、そこに向かって、弛まず、ペースを守り、持続させる。
どうして重要なのか。マグレをあてにしない為である。
写真なんかでは特に、たまたまいい写真が撮れる時がある。そういう意味では、運がかなり左右する。スナップフォトは運だ、と言ってもいいぐらいに。
たまたまの成功体験をあてにしない。そして、作品の質などを安定させて、ポートフォリオとして完成させる為には、一つの作品、一枚の写真はそれほど重要ではない。
それは、一歩である。貴重な一歩、というのはある。様々な一歩がある。作品制作とは、歩行だ。歩行して、移動することである。
ムラはない方がいい。ムラは癖として現れることが多々あるから。

ムラを減らすには、取り組み方のフォーム、ルールを自分で定め、守り、持続させることだ。
これらには、明文化出来るものがあれば、出来にくいものもある。

現在、僕は、iPhoneのカメラで撮影した写真を、インスタグラムにアップしている。ポートフォリオが完成したので、手持ち無沙汰で、毎日一枚ぐらいのペースで撮影してアップしようかな、と考えているところである。
これは、以前、写真を個人的に教えていた時に、推奨した取り組み方に近いのだが、僕は、撮影した写真の見せ方を出来るだけイージーにしたいので、1/365gramというサイトを検索で見つけて、それを利用することにした。このサイトにログインすると、インスタグラムにアップした写真をアップした日付ごとに、カレンダーの形で、誰でも見ることが出来る。
デザインもシンプルで、僕の求めているイメージに近かった。
インスタグラムでの写真の完成形は、これでいいな、と僕は思っている。ポートフォリオを作りたいわけではない。ただ、写真を楽しみたいだけだし、撮っている時、僕の心は落ち着いたり、ワクワクしたり、余分なことを考えないで済む。インスタグラムのフィルター機能が新鮮だし、スクエアフォトは興味があるし、モノクロームに簡単に変換出来る。iPhoneのカメラも興味深い。こういうのは、使ってみなければ分からないことの方が多い。これは、スペックの問題ではない。道具というのは、自分が使ってみなければ、分からない。

インスタグラムのやり方は、ずいぶんとイージーだ。こちらは、毎月三十枚ほどiPhoneからアップすればいい。セレクトもしない。アップしっ放しにしようかと考えている。
元々は、自分の写真サイトに編集してアップしようかと考えていたのだが、このやり方では、やる方も見る方も煩雑になってしまう気がした。
便利な機械、便利なシステムがあるのなら、それらを用いて、半自動化させて、やるのも面白いのではないか、まぁ、つまり、自分の負担を出来るだけ減らしたかっただけではある。

二週間ほど前から、サウンドクラウドで曲をアップ出来なくなっている。よく分からないエラーで。ネットで検索しても、それらしいものが出なかったので、曲数の制限にひっかかったのか、このい機会に、しばらく、曲を作るのをお休みしようかと考えている。
その分が、iPhoneのカメラでの撮影に費やされている感じ。

音楽は、今、僕は、ロックを意識してやっている。僕にとってのロックとは、どうやら、街、のようだ。シティ、都市、と言ってもいいし、アフリカ的な集落的なものも入ってきている印象を、自分で聞き直していて、感じている。

一枚目のCDは、心の内面。
二枚目は、宇宙。
三枚目は、街をやっているのではないか。

これは、自分で意識してやっているのではない。そうなっちゃったのである。よく分からないけど、心の内面になったり、宇宙になったり、街になったりして、一貫しているのは、僕が音楽でやりたいのは、環境音楽なんだろうな、という予感だけである。

二枚目のスーパーノバは、テクノ、YMOを意識していた(ぜんぜん似ても似つかないものになったけど)。下手なりに一曲ごとの完成度を高めよう、と考えてはいた。今回は、完璧を目指さず、雑多なものをやりたい、と漠然とながら考えていて、結果、どうやら、シティ、をやっているようだ。シティ、というのに、街の音、というものに、完成度も完璧もない。車の音、人の足音、風、人口の音、雨音、さまざまな音が混ざり合っている。ここでいう完成度とは、多分、整合性のことなのだが、街を実際に歩いていて、整合性のある音の環境などありはしない。それぞれの音には、意図がある。意思がある。それらが雑多に混ざり合う。実に街というのは、音で溢れている。

二枚目は、サウンドクラウドにて、再生数が十幾つかあったのだが、三枚目のCD用に制作している現在の曲たちは、まったく再生数が増えない。増えているのは、僕の下手くそな、アカペラで歌って録音したカバーソングだけだ。あれは、知らない人が聞いたら、驚くだろうな。アカペラ、というよりかは、ただ、音程を外した歌声しかないから。
歌はともかく、実際のところ、今取り組んでいる曲たちは、ウケがよろしくないだろうな、というのは、最初から予想していた。だって、僕は、僕の作ったあれらの曲のような曲を、他に聞いたことがないから。
世間でよく耳にする音楽からはだんだんとズレていき、とうとうここまで来たか、という感じさえしている。
どうやら、音楽というものは、整合性で出来ている。それが多分、雑音と音楽の違いなのではないか。今の僕は、音楽ではなく、雑音をやりたいと思っている。街に溢れている雑音を雑音だとせず、それらを自分の耳に即した形で再現したいと考えている。どうやら、そういう風に音楽に取り組んでいる人は、ポピュラーな存在ではないようだ。

僕は、音楽でややこしいことをしたいわけではない。練習を重ねて、楽器を上手く演奏したいというわけでもない。そもそも、今や、練習などしていない。頭の中の音たちを、シンセサイザーや電子キーボードを用いて、自分なりに再現しているに過ぎない。
表現という言葉の通り、表に表しているだけで、僕は独創性などというものを信じていない、いや、信じる信じないの前に、気にしていない。
僕が用いている機材があれば、その気になれば、誰だって同じように音楽制作が出来るだろう、と僕は考えている。たかだか、それだけの話だ。特別なことなど何もしていないし、しようとも思っていない。

結局のところ、iPhoneのカメラだって、別段、扱いが難しいわけではない。誰だって、ある程度以上に、問題なく、キレイに写せる。要は、簡単な言葉でいえば、自身のインスピレーションとモチベーションが必要なだけなのではないか。
完成形を想定して取り組むのに必要なのは、きっと、率直な覚悟だ。それ以外の何ものでもない、僕はそのように考えている。

今年に入ってから、僕自身が変わったのかも知れない。手を抜かなくなった。今、僕は、手を抜いていない。それは、多分、完成するまで、気を抜かない、ということかも知れない。出来るだけ、ムラをなくす。マグレをあてにしない。それは、想像以上に、難しいことだろう。率直な覚悟は、勤勉さに似ているのかも知れない。
ポートフォリオに必要なのは、あまり一喜一憂しないことだ。ただじっと、完成を目指して、持続させる。そうしていれば、自ずと、完成しているだろう。