ある人のこと

ある人のこと

先ほど、一分ほど、とあるUstreamでの会話を聞いて、批評の話をしていたから、批評について、書いていくけど、批評というのは、成立した動機や心境を知ろうとする態度だよ。決して好き嫌いではなく。
友人の新しい詩を読んで、僕はもう詩を書くのをやめよう、と思った。書いた友人も、あの新しい詩は、特別なものだと感じている。そこに、好き嫌いなんてないよ。僕はあの詩に、書き手の心情を見たんだ。見て、ああ、自分は詩人とは言えないな、と思った。それだけのことだ。僕は、見たから、分かったんだ。

音楽態度なるものを僕に教えてくれたのは、とあるピアニストの練習を、そのピアニストの自宅で、僕はソファに腰掛けて、アイスバーを食べながら見た時だ。僕は、その時のことを、今でもまざまざと覚えている。アイスバーの冷たさ、部屋の光線、色が心に焼き付いている。これは理屈ではない。僕は、そのピアニストの背中の中にある音楽へのひたむきな信仰を見た。信じる心を見た。

僕は以前、ある人を見た。その中には、簡単に言うと、水と油のように分離した二つの心があった。光と闇のような。それをかき混ぜれば、混ざり合うのだけど、それは、ある人の潔癖が、あるいは、過去が、許さない。こうあらねばならないと決めた自分の内側の枠、こうあらなければならないと決められた外側からの抑圧が、自分を二つに分離させた。分離させて、二つの心があることを不安に思う。結局、その人には自分が分からない。分からないから、知ろうとする。知って、結合させたいと願うのと同時に、本来の自分、汚らわしいであろう、素の、今までの過去の環境が許してくれなかった自分の姿に光を当ててしまうことをとても恐れている。震えている子鹿のように。ある人の心の中には、十代の、子供の、思春期の心がある。牢獄に入れられて、身動きの出来ない、不自由な嘆きの子供が。その牢獄の鍵を手に入れて、暗闇に居続けている子供を解き放ち、光を当てることは、とても難しいことだ。それは、人生最大の難問だと言ってもいいぐらいの。その子供が醜いか、美しいかは、誰にも分からない。しかし、その子供がそこにいる、ということは、変えようがない。その子供は、ひねくれてなどいない。その子供は、真っ直ぐな目を持っている。僕が畏怖し感嘆するのは、この真っ直ぐな目だ。それは、目、としか言えない目だ。僕は、僕を見たあの目の眼差しを忘れないだろう。