ゆしらくんへ

ゆしらくんへ

先ほど、一曲、演奏して、サウンドクラウドにアップした。
夜も深いので、そのまま寝るか、ちょっとゲームをして寝るか、考えたのだが、明日は休みだし、雨が降るだろうから撮影にも不向きなので、夜更かしすることになるが、こうして、文章を書くことにする。
今は、文章でやりとりするのが、いいのだろう。
メールでもいいのだけど、もともと、僕はあまり長いメールのやりとりはしないので、ブログで書くことにする。
僕にとって、メールかブログかの選択に大した意味はない。
メールにしても、ブログにしても、書く文章に気をつけなければならないことに違いはない。

ゆしらくんは、ずいぶんと、混乱しているようで、先日のTwitterのやりとりで、何となく、こういうことで悩んでいるのかな、と感じた。
今日、ゆしらくんのブログを何となく、半分ぐらいまで読んで、少し涙が出てしまったようだ。目の周りが濡れていたから。
どうして泣いたのかは知らないけど、ブログの文章を全文読んだので、ここは、文章を書くことにしよう。
今まで、だいたい、僕はそうしてきたから。

ゆしらくんの混乱の原因というのは、多分、こうなんじゃないか、という目星みたいなものが、僕の中にはある。
ゆしらくんは、そんなに複雑な人間ではないからね、僕と同様に。
純粋なるバカだから。
純粋なるバカが、悩むとどうしようもないところに落ち込んでしまう。
その姿を想像するだけで、傷が痛む。

具体的な説明は避ける。
僕のいつもの勘違い、という可能性もあるし、ゆしらくん本人が気付いているだろうから。
本人が薄々気付いていることを、こちらがわざわざ傷口を広げる必要はあるまい。
いくつか、断片的に書くので、あとは勝手につなげてくれたらいいのではないだろうか。

ゆしらくんはバカではあるけれど、頭が悪いわけではない。そのことを、僕は知っている。特に、芸術に関してのセンス、思想などに関しては、よく考えているし、興味深く、熱心である。
中原中也に対する愛、音楽に対する愛は、無知な僕にいろいろなことを教えてくれたし、僕はゆしらくんのそういう愛をいつも尊敬している。

ゆしらくんは、本当は、気付いているのだと思う。
気付いていて、気付かないフリをしようとしている。
愚鈍な人間ならば、あるいは、それで済まされることかも知れない。
見ようという目を持っていない人ならば、見えなくすることは可能だろう。
僕は、ゆしらくんが撮影した写真を見ている。
見て、目を持っている人だということを知っている。
ゆしらくんは、見える目を持っている人間なのだ。
人によっては、都合のいいところばかり見ようとする。世の中の半分以上は、そういう写真である。しかし、ゆしらくんの写真は、そういう都合であまり左右されていない。愚直な目を持っている。これが、純粋なるバカだと僕が言う理由である。
これは、持って生まれた性質なのだろう。
そういう星の下に生まれてきた。これは、才能だと言えば、才能と言えるかも知れない。才能とは、自分が望んで得られるものではない。文字通り、ギフトなのだ。

問題は、自身の進退に関してのことなのだろう。

これは、僕にも関わることなので、言い訳も入ってしまうかも知れない。出来るだけ、自分のことは勘定に入れずに、書き進めていきたいものだが。
僕とゆしらくんの関係というのは、見栄というのは、あまりなかったように思う。
僕らは、ほとんど、芸術の話をしてきた。そこに、見栄なるものはあっただろうか?
僕らは時に、自分たちの作品について、あれこれと話をしてきた。率直な意見を交換してきた。
そこに、虚栄心や余分な遠慮はあっただろうか?
僕は、なかったと思っている。
僕らは、自分がしてきたこと、していることについて、話してきたのであって、出来もしないことを語り合ったつもりはない。
時に、夢を語り合った。その夢は、出来もしない、ただの妄想だったのだろうか?

現代詩手帖に詩を応募した時、数ヶ月は、僕も出していた。結果、ゆしらくんの詩はすぐに掲載されて、僕の詩は選ばれることがなかった。
僕は薄々、僕の詩は選ばれないであろうことを、感じていたから、ゆしらくんの詩が僕の予想と反して、すぐに掲載されて、僕が現代詩手帖に応募する必要性がなくなったので、出さなくなっただけの話である(もしかしたら僕の詩が掲載されるかも、という自惚れがあったことは否定しないが)。
僕は、ゆしらくんの詩や散文ならば、現代詩手帖に掲載される可能性があるな、と思って、ゆしらくんに応募することを勧めた。そこで、僕も応募する必要は、実のところ、あまりなかった。ただ、人に勧めるだけでは無責任かな、と思って、ゆしらくんに付き合おう、と思ったところが大きい。そうすれば、ゆしらくんも応募するだろうから。
まさか、応募してすぐに掲載されるとは思っていなかったので、ビックリしてしまったのだが、これも夢の一つだと言えないだろうか? これは、妄想なんかじゃない。現実になったのだから。
ゆしらくんの詩が、現代詩手帖に掲載されたことが良かったのか悪かったのか、僕には何とも言えないところもあるけど、何度も掲載されたことは、紛れもない事実である。

僕は、自分の作品に対して、嘘は言ってこなかったし、やらないようにしてきたつもりだ。
自分がやれもしないことを、他人に指図したつもりもない。
特に、近年は、そういうことに気を付けてきた。

泣きたければ泣けばいいし、笑いたかったら笑えばいい。

創作というのは、自ずと、そういう、自身の人間性を炙り出すものである。血が噴き出すのだ。

人は、自分が出来ないことに直面すると、言い訳をこしらえてくる。その言い訳は、他人に向けられた八つ当たりであることもある。
それは、その人にとっての真実ではあるのだろう。
言い訳をしている限り、その人は、本当は出来る可能性があるかも知れないのに、出来なくなってしまう。
やってみて、出来なかった、失敗した。そんなことは当たり前にある。そういう時は、ただ、出来なかった、と思っていればいいだけのことではないだろうか。出来ないものは出来ない、それは仕方のないことだ。失敗を認めている人間に、それ以上、責める言葉を投げかけたいとは、僕は願わない。

ゆしらくんは自分で気付いていないかも知れないが、ゆしらくんは逃げることの苦手な人間だ。
逃げるというのは、器用な人間のすることで、あったことをなかったことにすることが出来る。
ゆしらくんは、創作に関して、僕との約束は、全力で守ろうとしてきた。出来もしないことを、さも出来るように言ったことは、僕の記憶では、一度もない。
逃げてばかりの人間が、ああいう詩や、散文を書けやしない。ゆしらくんの文章には、血が通っている、血が吹き出している。そういうのは、どちらかといえば、不器用な人間のすることだろう。自己欺瞞の強い人間は、ああいうものを創作出来ない。

僕は、本当を言えば、もう、理屈をあまりくどくどと言いたくない。
そんなことをしても、無駄だと分かったから。
他人の理解力というものを、僕は疑わない。他人の理解力というのは、凄いものだ。それは、理屈じゃない。理屈を理解したからといって、本当に理解しているわけでもない。
ゆしらくんはすでに気付いていると思うから、これはもう、蛇足でしかないと分かっているのだが、僕が歌をうたってサウンドクラウドにアップしたり、写真だけをメールで送ったのは、理屈を言いたくなかったからだ。歌を聞けばいい、写真を見ればいい、それでゆしらくんなら伝わることを、僕は疑わない。あんなものは、作品で現せばいい。長ったらしい文章を書いて送ることは、粋じゃないね。

昨日、もののあわれについて、調べ直そうと思って、橋本治さんの「小林秀雄の恵み」を読み返し、小林秀雄さんの講演を聞き直してみた。
小林秀雄さんの講演で、紀貫之は「土佐日記」の中で、船の先頭にはもののあわれが分からない、みたいなことを書いている、と話していた。
旅の途中で、紀貫之が舟に乗っていて、周りには絶景が広がっている。その絶景に、紀貫之もののあわれを感じる。そして、この舟に乗っている先頭にはこのもののあわれは分からんだろう、と。本居宣長は、そういうもののあわれもののあわれではない、と著書に残している。もののあわれとは歌人特有のものではなく、誰にだって心の中にあるものなのだ、と。歌人だけのものではない、もののあわれは、人ならば誰にだって感じられるものなのだ、と。
僕は、そのことを改めて知りたかった。つまり、平安時代もののあわれなるものと、本居宣長が発見したもののあわれは異なるものなのではないか、ということを。
あるいは、紀貫之などの歌人が述べているもののあわれなるものと、源氏物語におけるもののあわれは異なるものなのではないか、ということを。

今、僕は、三枚目のアルバムに向けて、四曲、サウンドクラウドにアップしている。僕は、自分の曲は、新しい曲が、一番好きだ。一枚目のアルバムよりか、二枚目のアルバムの方がいいと思っているし、二枚目のアルバムの曲よりも、今の四曲の方が好きである。

これだけは確信しているが、ゆしらくんは、自分を偽れるような器用な人間ではない。
だから、器用に振る舞おうとして苦しむことは、なるべく、しない方がいいだろう。
純粋なるバカは、純粋なるバカのいいところを発揮すればいいのではないだろうか。