おはよう

おはよう。

今日はこれから、お風呂に入って、部屋で、PCを使った仕事を二件、しなければならない。多分、十時間以上、掛かるだろう。

友人のブログの続きを先ほど読んだ。
友人の言う感傷と共感の言わんとしていることは、昨夜よりかは、理解出来たのではないか、と思われる。

やはり、僕にとって不思議なのは、個人的感傷というのが、具体的にイメージすることが出来なかった。
鏡の前で一人でボディビルに勤しむ人を、ああ、この人は個人的感傷からこのように自分の体を鍛えて、鏡の中で悦に入っているんだな、とは、僕は思わないので。
これは、僕の見識の欠如だと言ってもいいだろう。
僕は、どのようなものやことが感傷なのか、具体的に他人が指差さないと分からないし、目の前のものに指を差して、あれを感傷的だと言うんだよ、と言われても、ああ、他人はあれを感傷的だと言うのか、と思うしかないのかも知れない。
それぐらい、僕には、自他を含めて、感傷というものに興味がない、とは言えそうな気がしている。
興味がないから、自分は感傷とは無縁だと言うつもりはない。

もし友人が、主に、僕がサウンドクラウドに一番最近、アップした曲のことを指差しているとしたら、まぁ、あれは個人的感傷と言われても仕方がないものだとは思う。
あのピアノとテルミンのような二つの音色で演奏した曲は、個人的な悲しみを表に出している。
それは意図的にしている。
2枚目のアルバムを考えた時、一曲ぐらい個人的な悲しみを収録したい、と考えたからだ。
あとの曲は、そういうものではない。
もし、最近の他の曲にも僕の個人的な鑑賞が色濃く反映されているのなら、具体的な曲名と、どこがそうなのか、具体的に音で言ってもらわないと、僕には分からないだろう。
この音を使っているから感傷的だとか、この音とあの音をこのように組み合わせているから感傷的だとか。

友人のビートルズの曲のカバー演奏を生活的感傷だと述べている理由は、ヒーターのアラーム音だけではない。あれは、言いやすいから言ったのであって、ギターの弦の弾き方、歌声を聞き直せば、分かることなのではないか、と思うのだが、どうだろうか?
友人の曲は、具体的に言うと、どうやら、友人の部屋で演奏しているものと、恋人の部屋で演奏しているものでは、大きな違いがあるのではないか、と僕には感じられる。
まず、音の響きが違う。
これは、部屋の空間的な音の響きが違うからだろう。
僕の言い方をすると、友人の部屋での演奏よりも、恋人の部屋での演奏の方が、音が拡散している。
拡散しているので、音に厚みがないように感じられてならない。
これは、部屋の壁の厚みの違い、しいては、外からの騒音(風や車の音など)が録音した演奏に被さりやすいのではないだろうか。

また、友人の部屋での演奏では、そういう騒音をあまり入れないようにしているか、入らないようになっているのだが、恋人の部屋での演奏では、騒音をあえて入れるようにしている節がある。
掃除機の音や、ヒーターの音などの人工的な音を、意図的に入れているし、ジョンケージの真似をしたものに至っては、それでしかない。
この違いを、僕は友人の生活的感傷と名付けてみたのだが、それは違うのだろうか?
言い方を変えれば、友人は、自室では生活的感傷に浸れないのではないのか。
出来るだけ外からの音を遮断し、意識的な耳を塞いでいるのではないのか。
恋人の部屋だからこそ、生活的感傷を受け入れることが出来るのかも知れない。

僕は、生活的感傷を悪いものだと言っているわけではない。
しかし、現在において、それが演奏の邪魔をしているのは、音楽そのものに意識が集中されておらず、気分が出てしまっているからだ。
これは、僕たちの言っている感情とは異なる。
この気分には根っこがない。
気まぐれで、先ほどと今とでは通底しているところのない、浅いものである。
もうちょっと正確に言うと、友人は自室では自分の気分を発散させることが難しいのだが、恋人の部屋では自分の気分を発散出来るのではないだろうか。
有り体の言い方をすれば、恋人の部屋で寛いでいるのではないか。

寛ぐことは悪いことよりかは、良いことだろう。
大いに寛げばいいし、そんなことは、他人があれこれと言うべきことでもない。
しかし、寛いでいるぶん、演奏に緊張感がない。
また、そういう気分には、聞き手への配慮に欠けたところもある。
せめて、楽しそうに、ハッピーな演奏をしてくれたのなら、聞き手も寛げるかも知れないのだが、新しい曲は、些か以上に、窮屈な印象を受けてしまう。
ここに、僕は、友人の複雑な心理を感じてしまうのだが、複雑な心理というものは、概ね、見て見ないふりをしたおいた方が双方の為なので、これ以上の詮索はやめておくことにする。
ただ、一言だけ書けば、演奏に無理が生じている。この無理を何とかしたくて、あえて、ヒーターのアラーム音を入れた、と解釈することは可能なのではないだろうか。

共感に関しては、これ以上、僕が述べる必要を感じていない。
僕には他者に関しての共感が欠けていると言われれば、そうだろうな、としか言えないし、そのことで悩んでいるわけでもない。
多分、そのことで苦悩しているのは、友人本人であろう。

気分というものは、気分そのものは否定するべきものではないのだが、表現においては、ほとんどの場合、邪魔になる。
これは、偶然性の排除とは違う。
気分というのは、相当に自分勝手なもので、また、自分勝手が許されるものだからこそ、創作には有害なのである。
気分は移ろいやすい。こういうものを創作の根底に置いてしまうと、作品自体が移ろいやすく、創作者自身の心を打つことがむずかしくなる。
作品には多分に自身の気分が影響を与えているものだが、作品の根底に置くべきは、気分よりも感情である。
感情と気分とは異なる。
分かりやすく言えば、カメラ女子の多くの写真は、自身の気分を表現しようとしている。
そして、この気分は、きっと、表現されていることだろう。

感情と気分の大きな違いは、感情は好き嫌いではなく、気分は好き嫌いだと言えるのではないだろうか。
人の気分は、他人に自身の好き嫌いを言いたいのである。
ここでの好き嫌いは、他人にはどうでもいいような、それこそ感傷でしかないだろう。
僕は、好き嫌いと述べたがる気分を否定していないけど、創作においては、表層的な好き嫌い、スキキライを削っていくことをした方がいい。
純粋感情というものがあるとして、人の心の底まで響くのは、移ろいやすい気分ではなく、純粋なる感情なのではないだろうか。

気分の話は、友人に向けて書いたのではない。
そもそも、友人のブログの文章の半分は他人のことだとして、そのうちの半分(半分の半分、つまり四分の一)は、僕ではなく、別の誰かのことを書いているのではないか、と思われる。