友人のブログへの返答(書き直し)

友人のブログへの返答(書き直し)

先ほど、書いてブログにアップした文章を削除した。
要点を得ていず、言い訳じみていたからだ。

説明は飛ばし飛ばし省略して書いていく。
説明などしなくても、友人には伝わると思う。

僕の音楽のことだけど、あれはどうやら、もっぱら、友人自身のことを書いているように感じられた。
理由は、先日サウンドクラウドにアップした友人の曲を何度か聞いて、それを思い出せば分かることでしょう。
曲の始め、ヒーターのタイマーなのだろう、ピーピーとアラーム音が鳴っているのが、ギターの演奏に被さってきている。
どうしてわざわざ、アラーム音を入れたのか。
入ってしまったのなら、録音をし直せばいいだけのことなのに。
あれをわざわざ入れてしまうのが、今の友人であり、友人の音楽なのである。
生活的感傷というのが、あのアラーム音でなくて、何だというのか、僕には不思議である。

音楽で自分を試すような、探るような真似は、音楽には不要だと思うので、できる限り、やめた方がいいのではないか、とは思った。
これは、正確には、集中力の欠如なのかも知れないが、曲の後半はよかった。音に入り込んでいる感じを受けた。
演奏していて、集中力が定まって、自身が音に溶け込もうとしている。
こういう自身の心境の変化、もしくは「事」を音楽に入れない方がいいだろう。それをやるのは、もうちょっと後からの方がいい、何故なら、この「事」は曲における傷だからである。
僕は、傷が悪いとは思っていないし、言わない。しかし、最初から傷をやろうとするのは、音楽そのものを蔑ろにしてしまうことに繋がるのではないだろうか。
まずは、きちんとギターを弾く、歌う。余分な音は出来るだけ入れない方がいいのではないか、それがまっとうというものだと、僕は考えている。

友人に、気が向いたらでいいけど、ブログでさらに具体的に書いて伝えて欲しいことは二点。

・感傷はなぜいけないのか
・共感がないとなぜいけないのか

僕は、感傷をいけないものだとはちっとも思っていない。
だから、感傷的だからいけない、と言われても、いまいちピンとこない。僕は、他人や他人の作品に、感傷的だからいけない、などと思ったことも言ったこともないだろう。
こんな僕でも、どうして感傷的だからいけないのか、分かるように説明していただければ幸いである。

共感がなぜいけないのかというと、自分と他人を混同する可能性が高いからである。
どうも、僕の目から見て、友人の僕への批判は、半分は僕の事実だと受け止めているが、残り半分は自己言及しているのではないか、と感じられる節がある。
音楽で例えるのが一番分かりやすいだろう、と思って、先ほどの文章を書いたが、友人は、多分、私、及びに、私の作品に共感をして見ている。
だから、違和感がある、と書いてしまうのだろう、と。
共感の最大の欠点だと思うが、こういう違和感をいけないものとして、排除しようとする意識が働く。
共感の限界、と書いてもいい。

共感は自他の境界を曖昧にするところがある。
曖昧にして、仲良くやっていけるのならいいのだが、時に、共感は一元的になり、平行線を辿る。
相手の価値観、世界観を認められなくなってしまう恐れがある。
そうなってしまったら、自身の掛け替えのない優しさから発せられた切実なものであっても、相手を束縛し、限定的にしか見れていない。
あるがまま、からは遠い。
それは、もののあわれ、とは違うのではないだろうか。
共感に悪も善もない。
そのことは、けっこう見落とされがちなことだと、僕には思える。

共感によって傷ついた自分の心をどうして他人に見せる必要があるだろう。