自分を知り、自分を信じるというのはどういうことか

・他人を見下してはならない

とあることがあって、他人を見下してはいけないな、と改めて強く感じております。

私を昔から知る人なら、知っていることですが、私は、あまり他人の人間性を悪く言わないようにしています。
まず、私の人間性が優れているとまったく思えないので、他人の人間性を悪く言う資格がないと考えているからです。
その代わりと言ってはアレですが、作品性については、辛辣なことをあれこれと言ってきたし、書いてきました。
今年に入り、それもやめよう、と思い至り、あまり他人の作品の批判などを控えるようにしております。
ただ、私は、作品においても、意識的には、他人を見下したいわけではありませんでした。
もともと、私は、自分のことを、それほど優れた人間だとは思っていません。
大したことのない人間だと思っています。

私は、大したことのない人間だと自分のことを思っているから、主観ではありますが、他人の作品を見て、自分の作品よりも劣っていると、不思議でならない人間です。
見下したいとか、バカにしたいとか、そういうことではなく、どうして劣っているのか、不思議なのです。
そのことも、考えていくうちに、だんだんと答えらしきものが分かってきました。

・どうして他人を見下してはならないのか

私自身は、これまで、出来るだけ他人を見下さないように、気をつけて、生きてきました。
作品を見下すことはあっても、人間性の否定まではする資格はないぞ、と。
今になって、作品のことも、それほどあれこれと言う必要はないのではないか、と感じています。

他人を見下す、というのは、自分よりも劣っているであろう他人をバカにすることによって、自分は優れている人間だと思いたい心理から行われるのだと、私は捉えております。
つまり、それは、自身の劣等感、自信のなさの裏返しなのです。
他人をダシに使って、自分の劣等感や自信のなさから目を背けようとしている、誤魔化そうとしているわけです。
他人を下に見てはならない、というのは、正確には、自分の下らない優越感を満たす目的で他人を下に見ることはならない、ということです。
作品に関して言えば、作品の良い悪しというのは、けっこうはっきりと出るもので、自分の作品よりも劣っている他人の作品は、この世界に数多とあります。
逆に、自分のよりも優れた作品や、自分とはまったく世界観の異なる作品も、数限りなくあります。
この事実をうやむやにしたいわけではありません。
それをしたら、悪しき平等主義でしょう。
作品も、人間も、同じなんてことはありませんし、同じじゃない方が面白いわけですから。
芸術における平等とは、平等に機会が与えられているであろう、ぐらいに思っておいた方がいいのではないか、と私は思っております。

他人を見下してはならないのは、下らない優越感を満たしても、それは下らない、仮初めのものでしかないからです。
それをやって、自分に自信が宿るわけではない。やはり、自信はないわけで、自分の劣等感がなくなるわけではありません。
それに、そういう優越感は下らないですね。そういうことで得た優越感の弊害というのがあって、それは、自分の周りにそういう下らない優越感を持った人達が集まることです。
そういう優越感を欲している人達というのは、自分勝手で、他人に優しくはありません。
私は、そういう人と関わり合いになりたくないので、他人を見下すのはやめよう、と強く感じているのです。
関わり合いになりたくない、というのも、別に、そういう人達を見下して言っているのではなく、他人に対して思いやりがない人と関わり合いになっても、自分にとって有益ではない、という単純な理由です。

・友人との会話

先日、数年来の友人とスカイプで話していて、私がとある人のことをあれこれと愚痴っていたら、自分にもそういうイヤなところがあるかも知れない、と私に言いました。
私は、友人に、その人と貴方の違いは、他人を見下しているかいないかだ、とはっきりと言いました。
友人の人間性が優れているかどうか、ここで述べるつもりはありませんが、友人の作品には、他人を見下そうとしている態度や心がほとんど見受けられません。
それに、自分にもそういうイヤなところがあるかも知れない、と考え、他人に言うことが、既に、他人を見下してはいないのです。
イヤな他人を見て、自分にもそういうところがあるかも知れない、と思い巡らせる、それは、他人のこと、あいつはバカだ、とか、クソだ、とか、一言で片付けるのとは違います。
他人のフリを見て、自分のフリを直すのか、バカにして笑って済ませるのか、それは、ぜんぜん違うことです。
他人の嫌なところは、反面教師にしたらいいだけのことで、実は自分では分かっていないところで、自分にもイヤなところはたくさんあるでしょう。
完璧な人間などいないのですから。
そういう、自分の無自覚のところまで目を向けているか、目を向けようとしないのかは、かなり大きな違いです。

・「バカの壁」を読み終えて

実は、今回の文章は、養老孟司さんの「バカの壁」の文章を意識して、丁寧に書いています。
この本を読み終えて、ふと、スカイプで話した友人と出会った頃を少し思い出しました。
友人は詩人で、私とは散文を通じて、ネットで知り合いました。
5年以上前の頃です。

友人と知り合った頃、私は友人によく、創作にはパッションが必要なんだ、と、何度も繰り返し、述べておりました。
私の言うパッションとは、情熱、という意味よりも、衝動、という意味で用いています。
創作とは衝動なんだ、ということです。
そこから、数年経って、今の私は、もののあわれ、とよく言うようになったし、書いてもいるのですが、根っこはほとんど変わっていないな、ということに、「バカの壁」を読んで、改めて気付かされました。

私にとって、「バカの壁」は、そういう内容だったからです。
意識的な在り方のみを近代的自我だと言っているけど、個性というのは意識されないところにもあるんだよ、というような内容です。
意識、ということの対義語は、きっと、本能だと思うのですが、私の使っている衝動という言葉は、本能に置き換えてもいいな、と思ったのです。
創作とは本能である、と。

そもそも、衝動に身を委ねるというのは、意識を捨てることです。衝動というのは、どうしようもならない、どうにも抑えることが出来ない、その人の本能でしょう(パッションという意味には、受難という意味もある。ここではそれを業と言っておきます)。
頭でゴチャゴチャと考えてやるのではないわけです。
やりたかったらやればいいのだし、やりたくなければやらなければいい、衝動というのは、意識よりも前にある一瞬の心の動きのことです。
これは、脳内細胞のきらめきだと言っていいかも知れません。
意識になる前の身体的反応、それが衝動であり、本能でしょう。

・パッションの重要性

私が芸術について語り合う相手は、スカイプの詩人の友人ぐらいで、5年以上の付き合いですから、既に、お互いに、パッション、という言葉は、古臭い概念になっています。
だから、私も、そのことを忘れて、今は、もののあわれ、などと言っているのであって、さらには、AはAであってBでもある、ということを、暗喩だと言ったりしています(暗喩というのはしっくりこないので、もっと別の言い方はないものか、ずっと思案中です)。
もののあわれというのは、私にはシンプルなことで、一言で言うと、「素直な素顔」です。素直に、素顔でやったらいいんだ、ということです。
あれこれと工夫してみても、ダメなものはダメなんだから、嘘をつかずに、やってみるしかない、ということですし、写真であれこれと工夫して撮ろうとせず、自分の心の動いたときに心を動かされたものを撮ればいいんだ、それ以外は写真にとって余分なものでしかないんだ、という考えから、もののあわれ、という言葉を使っています。

パッションという言葉は、すでに私にとって、古臭い、当たり前すぎる言葉になってしまいましたが、「バカの壁」を読むとそのことが書かれている、ああ、これは一度、パッションから書いた方がいいんじゃないか、と思って、今更ながら、パッションという言葉を使っています。

創作というのに、正解はありません。
特に、取り組み方というのに、こうしなければならない、という正解はありません。
もしあるのなら、もっと世の中の作品は、画一化されていてもおかしくないでしょう。
実際には、様々な作品があり、世界があります。
取り組み方、芸術論などというものを他人に押し付けもいいことは何もありません。
押し付けられたものは、せいぜいがモノマネで終わってしまうからです。

私は、作品の良し悪しをここで述べたいわけではありません。
良い作品はこうだ、悪い作品はこうだ、と批評したいわけではない。
先日、Twitterで、私をフォローしてくれている人のツイットを読んだら、創作をしていて充実感がない、みたいなことが書かれていて、充実感がないのなら創作しなければいいのに、とついつい思いました。
良い作品か、悪い作品かは置いておいて、やっていて充実感がないのだったら、やらなくもいいのです。
逆に、どんなに稚拙な、未熟な作品でも、制作していて楽しく、充実しているんだったら、それが何よりだと、私は考えています。

充実感がない、ということは、実感が伴っていない、ということです。
作り手の実感が伴っていない作品を見せられても迷惑なだけですし、作り手側から言えば、無責任だと言えるでしょう。
そんな無責任なことをするんだったら、やめた方がいいよ、と私なら思います。
やはり、どんな形であれ、人様に見せるのであれば、作り手には責任が伴う、というのが、私の考えです。
それは別に、受け手を喜ばせなければならない、とか、そういうレベルではなく、自分がいいと思っていないものを見せても仕方がないだろう、というレベルのことです。

別に私は、充実感がない人に向かって、やめてしまえ、とは言いませんし、思ってもいません。充実感がなかったら、やってもやらなくても同じことで、自分にとってまったく有益ではないし、何よりもシンドイだけでしょう、と思っています。
どうして充実感がないか、と考えると、どうやら、作り手に実感というものが欠落しているとしか、私には思えません。
言葉を変えれば、作っているのではなく、作らされている、そういう気持ちが先に来ているのではないでしょうか。
学校の課題や、合同展覧会やサークルの締め切りだとか、そういうのがまずあって、自発的なパッション、作りたいという初期衝動からではない。
周りの環境だけで作るというのは、意識ですね。
頭で考えて、締め切りに間に合わせるのが先に来ている。
それは、創作にとっては、他所ごとを考えているようなもので、作らなくてはいけない、というプレッシャーを自分にかけることは、決して悪いことではないのですが、そういうプレッシャーだけでは、いいものは出来ないでしょう。
せめて、手を抜かず、昨日よりも今日、今日よりも明日、という向上心を持っていればいいのですが、ぬるま湯でやっている限り、充実感なんて持てそうにないのです。

・センスがない、というのは、どういうことか

人はよく、他人の作品を見て、センスがあるとか、ないとか、また、才能うんぬんと言うみたいですが、センスとは何なのか、私には疑問です。
いいセンスとはどういうセンスなのか、悪いセンスとはどういうセンスなのか、はたして創作において才能なんてものはあるのでしょうか。
実際には、飛び抜けた才能というのはあると思いますが、センスのない人間なんて、いないのだと、私は考えています。
それは、他人の撮影した写真を見ていて、強く感じます。
写真というのは、上手い下手とかはさておいて、撮り手の人間性、人生が現れます。
近頃は、さらに強く、見えるようになってきました。
だから、他人の写真を見て、貶すことがなかなか出来ません。
写真には撮り手の人間性が現れていて、写真をあれこれ言うことは、撮り手の人間性をあれこれ言うことに等しくなってしまうからです。
私は、他人の人間性について、あれこれ言いたくありませんので、だいたい、他人の写真を見て、まぁいいんじゃないか、と思っています。
写真には、どこか、必ず、撮り手のセンスがあります。
センスのない写真というのは、なかなかありません。
そういうのは、撮り手の意識無意識に関係なく、現れてしまうものなのです。

写真というのは、ボタンを押せば撮れます。
しかし、写真の全画面に意識を持てる人というのは、それほどいません。
だいたい、どこか、一点、意識を持っていて、画面の四隅などは見ていないものです。
そういうところに、無意識が入り込んでいます。
無意識だからセンスがないわけではなく、無意識だからこそ、センスや、その人自身が写り込んでいることは多いのです。

センスというのは、ここでは分かりやすく、感覚、という意味で使っています。
感覚というのは、頭で考えるだけではありません。
五感もまた、感覚そのものです。
写真なんてものは、目で見たものを写し撮るもので、視覚は五感の一つなのです。

優れた芸術は、見る側の感覚、意識ではないところに影響を及ぼします。
ウズウズしたり、ワクワクしたり、ザワザワしたり、理由は分からないけど鳥肌が立ったり、泣いてしまったり、笑ってしまったり。
それは、意識を超えて、感覚に直接伝わっているからです。

センスというのは、そういうものです。
それは、もののあわれだと言ってもいいし、直感だと言ってもいい。
パッションでも、エモーションでもいいわけです。
センスが、意識とは異なるものだというのは、多分、間違いないでしょう。
そして、センスがない人間などいないのです。

・音楽をやってみての実感

ここ半年ぐらい、私は音楽をやっています。
音楽をやり続けたのは、友人の恋人に写真を教えていて、写真だけだと相手に対して上から目線になってしまうので、自分の不得意な音楽をやったら、相手と対等になるのではないか、と思ったからです。
私は三十歳を超えて、音楽にハマるとは思ってもみませんでした。
音楽というのは、面白いものですし、素晴らしいものです。

私が音楽を不得意だと思い込んでいたのは、まず、私が音痴で、子供時代から、音痴だと陰口を叩かれていたからです。
あとは、家庭環境が大きく影響を及ぼしていると思われます。
そういう要因があって、私は、音楽に苦手意識が強くありました。
ところが、やってみると、楽しい。
シンセサイザーは、音楽の知識がなくても、演奏が出来ますし、理屈ではなく、やっていて、充実感があります。
もうこれはいいものだな、と。
だから、正直に言うと、私には、創作をしていて充実感が持てない、という人の気持ちは分かりません。

音楽というのは、まず、耳で音を聞くものですし、音を奏でるものです。
私にとって、音楽は、それ以上でも、それ以下でもありません。
知識なんてろくにありませんし、あまり意識的にやっているわけでもないでしょう。
Aという音があって、Bという音がある。AとBの音をどのように組み合わせたらいいのか、と。
結局、私がやっていることは、これぐらいのことだと思います。
Aという音を用意して、BとかCの音も用意する(シンセだと自分で音色を作ります)。
あとは、AとB、CやDをどのように配置して、時間の流れを作っていくか、というだけです。
僕のやっているのは、多分、ミニマムミュージックというものらしく、これはつまり、ループを作って、繰り返す音楽です。
とにかくループを一つ作ってしまえばいい。ループを作って、メリハリをつけるように、少しづつ、演奏を変えていけばいいだけなのです。
とってもシンプルで、だいたいの人なら、すぐに出来そうなことでしょう。

音というのは、耳で聞くものです。
耳で聞いて、意識ではなく、パッションで、やっています。
パッションというのは、衝動ですから、言葉になる前の何かです。
直感だと言ってもいい、そういうものに突き動かされて、やっています。
まずパッションがある、音が鳴る、そのあとで意識があります。
意識は、曲の構成、辻褄合わせをするもので、曲の全体をコントロールしようとします。
音というパッションと、曲という意識が混ざり合う時が、演奏をしていると訪れます。
この時が、最も楽しいですし、心地いいのです。
パッションと意識の混沌の「時」がやってくると、もう、訳がわからなくなります。
訳がわからないけど、演奏はしている。
まさにリアルタイムですね。
演奏というのは、リアルタイムで進んでいて、そこには実感があるし、充実感もある。

・実感とは何か

充実感が持てない、という人は、多分、生きているなぁ、と心の底から感じられない人のことだと思います。
私の場合、写真を撮っていたり、音楽を演奏していると、生きているなぁ、という感じがあります。
それは、自分が生きている、ということではなく、目の前のものが、音が、生きているのです。
もう、生き生きとしているわけです。

充実感を味わいたいのならば、まずお腹を空かせて、ご飯を食べればいいのではないか、と思います。
私は今、肉体労働をしていますから、仕事をしていると、お腹が空きます。
今日は、夕食に、牛丼屋に行って、豚汁定食のご飯大盛りを注文して、食べました。とっても美味しくいただきました。
だから、充実感が持てない、と言う人は、頭で考えるばかりではなく、肉体労働をして、お腹をすかせて、ご飯大盛りを食べればいいんじゃないか、と思います。
ただ、ご飯をたくさん食べるだけでは、不健康でしょうし、下手をすると、過食症になる可能性もあります。
体を動かして、ご飯を食べる。そして、ウンチをする。それだけで、充実感があるでしょう。

今、私が書いたことを読んで、馬鹿げたことだなぁ、と思うのであれば、それは、貴方が意識的になりすぎているのかも知れません。
そんなことをしてどうなるんだ、体を動かしてご飯を食べるなんて生きることに関して無価値なんじゃないか、と。
まぁ、確かに、社会的には、無意味、無価値かも知れません。
それでどうにかなるものではないかも知れません。
私なんかは、どうにかしよう、という意識があまりありませんから。音楽なんて、ただ、ハマっているだけです。社会的にどうか、他人の評価はどうか、など、二の次でやっています。

もうちょっと真面目なことを書くと、私は音楽をやっている時、自分の心の底が動いているのを感じます。
心の底にある音に耳をすませて、その音がまずあって、シンセサイザーなどの音を徐々に近づけていきます。
だから、自分の心の底が動かなくて、音が聞こえてこない時は、音楽をやりません。
聞こえてきそうだな、聞こえてきたな、という時に、出来るだけ、やるようにしています。
それは、理屈ではありません。
心の底にある音を聞く手段など、他人に説明が出来そうにありません。
聞こえてくるものは聞こえてくる。
これが、とどのつまり、実感というものでしょう。

・衝動に身を委ねるのは、バカのすることだ

パッション=衝動に身を委ねるというのは、意識ではなく、本能に忠実になる、ということです。
意識で抑制している、コントロールしているものを外して、本能に、欲望に忠実になる。
これは、つまり、バカになる、ということです。
頭で考えず、衝動で動いてしまう。
衝動というのは、反社会的なところがあります。
犯罪者の半分以上は、きっと、抑制できず、本能に忠実になって行動してしまったのではないでしょうか。
魔が差す、という言葉が、まさにそれです。
文字通り、魔が差してしまったのでしょう。

人の心の底には、神もいれば、悪魔もいるのかも知れません。
絶対の善人なんてものは、多分、この世には存在していませんので、誰の心にも、無慈悲な、悪意があるはずです。
悪意と人を切り離すことは、かなり難しいでしょう。
人間が人間として社会生活を送るためには、意識的な抑制、無意識の抑制もかなりありますが、とにかく、ほとんどの人は、常日頃、抑制されています。
例えば、夏、暑いからといって、丸裸で外を歩いていたら、犯罪者になってしまいます。
人は服を着て外出しないといけない、これは当たり前なルールであり、常識であり、社会的な抑圧です。

まぁ、バカというのは、手に負えないものです。
バカは死ななきゃ治らない、というコトワザがあるぐらいですから。
人の本能というのは、どうしようもないところにあります。
そして、芸術の本質的な一面として、社会的な抑圧からの解放、というのもあります。
作品の中だったら、概ね、何をしてもいいし、他人の目に晒さなければ、誰かから非難されることも、警察に捕まることもありません。
作品の中だけだったら、人を殺してもいいわけですし、裸で外を歩いてもいいのです。

充実感が希薄だという人は、意識的で、無意識のうちに、かなり自分を抑制し、抑圧しているのかも知れません。
それは、バカではない、ということが言えそうです。
社会の規範、枠に自分を無理矢理押し込んで、狭っ苦しい密室で、ぎゅうぎゅう詰めになってしまっているのかも知れませんね。
言ってしまえば、真面目な人と言えるのかも知れません。
だいたい、いい加減な私から見れば、真面目な人ばかりですから。
真面目に芸術創作をしている、しようとしている、そういう人は、たくさんいるでしょう。
それで、芸術とはこういうものだと決めつけて、狭い中にわざわざ自分や自分の作品と押し込もうと努力をしている。
そうやって、充実感があったり、いい作品が出来ればいいのですが、どうやら、私の目からすると、逆効果になっていることの方が多いように感じています。
何故なら、作り手のパッションがないからです。
こういうものだと決めつけて、頭で考えて、そこからはみ出さないように抑制し、抑圧している作品の多くは、勢いがなく、見る側にのびのびとした充実感を与えることが出来ないのではないでしょうか。
からしたら、見る側よりも作り手の充実感の方が大事だと思っていますが、作り手に充実感がないのだとしたら、お利口さんになってしまっている、というのがあるかと思います。

・自分を知り、自分を信じる大切さ

パッションは、今までの自分のタカを外します。
それをやってみて、ああ、自分にはこういう一面もあるのか、という発見があるはずです。
芸術は、作り手にとって、非日常などというものではなく、本来の自分を発見する行為でしょう。
日常の自分は偽物で、本当の自分はそこにはない、なんてことはありません。
それは、ただの言い訳のようなものですし、自分で自分のことがわかっていないだけです。
自分なんてものは、今、そこにあるのですから。
自分なんてものは、実際には、どうしようもない、身も蓋もないものでしょう。
それではヤバいと思って、見栄をはったり、見えないようにしているだけなのですから。

自分には才能がある、とか、才能がない、とか、そんなことはあまり気にすることではないのです。
才能なんてものは、ある人にはあるし、ない人にはない、それだけのことです。
あったらいいだろうし、なかったら仕方がない。だって、ないんだもの。
ないなら、ないなりにやったらいいのです。
それぐらい、自分自身というのは、身も蓋もないもので、そこに、言い訳なんて必要ありません。
自分にないものは絶対に出来ません。
たまたまやれたとしても、それはマグレで、続きません。
続かないことをしても仕方がない、というのが、私の価値観なので、才能がなかろうとも自分でやって続いていけることをした方が有益だと思っています。
多分、多くの人は、そういう身も蓋もない自分が怖いのでしょう。
見栄があったり、虚栄心があって、「こういう自分」から外れるような「本来の自分」を直視し、他人の目に晒すのが怖い。

自分なんてものはみじめなもので、孤独です。
それは、誰もがそうだと思います。
そのことを言い訳せず、素直に受け止めようと努めてみる。
こうして掴んだものが、実感です。
もののあわれであり、パッションの次にあるものです。
芸術は、必ず、パッションだけでは終わりません。
何故なら、創作という行為は、作品という形として残るからです。
残ったものは、パッションだけではありません。
そこには、様々な複雑な混沌、カオスがあります。
多分、複雑な混沌、カオスのことを、創作の秘密なんて言っているのでしょう。
これは、事実、複雑ですし、理屈ではないので、他人に説明できるようなものではありません。

自分というのは、自分でしかありません。
自分を知り、ああ、これが自分なのかと認識し、その自己認識を信じることは、かなり重要なことなのではないでしょうか。
ずっと写真を撮ったり、音楽をやったりしていると、何となく、自分ってこうだな、という癖が分かってきます。
この癖をどうしていくか、というのが、良い作品と悪い作品を隔てる重要な要素になってくるのですが、ここで私は、良い作品を作るにはどうすればいいのかを書きたいわけではないので、癖は癖として、この癖には作り手のセンスが詰まっています。
癖というのは、自分では意識していない部分です。そういうものが詰まっているのです。
作品の癖に自覚的になることは、自分の無意識、パッションを意識することに繋がって行きます。

・他人の評価は後から付いてくる

音楽の話に戻ります。
私は、音楽に関してはズブの素人です。
才能なんてないと思っています。
ところが、最近、シンセサイザーで演奏するようになって、他人の評価が変わってきました。
音楽をやり始めた頃、私は、電子キーボードのピアノの音色のみで、デタラメ(今でもデタラメですが)に弾いたものを録音して、サウンドクラウドにアップしていました。
この演奏は、自分で聞いても、とっても下手で、詩人の友人などから不評でした。
私は、周りから不評だとしても、それはそうだろう、と思っているし、不得意なものをやっている自覚がありますから、やり続けました。
そのうち、シンセサイザーで演奏をするようになって、友人などの評価がよくなってきて、今では、私の曲を悪く言う人はいなくなりました。
これは、我ながら、信じられないことですが、今のところ、私の曲を聞いて、あんなものはデタラメで下手くそでどうしようもないものだ、みたいなことを言う人を、私は知りません。
別の友人からは、想像していたよりもまともでビックリした、とお褒めの言葉をいただきました。

私は今でも、音楽は無邪気にやっております。
他人から褒められることを計算してやってはいません。
それでも、シンセサイザーと私の相性がいいのか、たまたまなのか、ちょっとずつ様になってきたな、と自分で感じています。
また、少しづつ、音楽的(音と音の組み合わせ方など)にやれることも増えてきたように感じています。

まぁ、やり続けていれば、不評だろうと、褒められようと、他人の評価はついて回るものです。
だから、あまり、気にしなくてもいいでしょう。
ダメなものはダメだし、いいものはいい、他人からすれば、それだけのことでしょうから。
他人の評価が知りたいのなら、周りの友人などに声を掛けて、これどうかな? と見てもらえばいい。
相手の発する意見、批評、感想よりも、相手の顔色、声色に注意していれば、相手がどのように感じているか、分かるはずです。
お世辞なんてものを間に受けてはいけません。
また、相手に媚びてもいけません。
そんなものは、つまらないものです。
率直に、素直に聞いてみてばいいのです。
酷評を恐れはいけませんし、自分や自分の作品に過度な期待を持ってはいけません。
そんなものは、ただの自惚れです。
自惚れは気持ちいいものですが、有益ではありません。
謙虚な気持ちでいることが、何よりも大事なことです。
「素直な素顔」でいれば、それでいいのです。
そして、それは、相当に難しいことなのですが。

・心の底にあるもの

パッションは、自分の深層心理のようなものを引き摺り出します。
これは、分かりやすく言えば、作品の癖として出て来ます。
深層心理は、混沌としていて、理路整然となんてしていませんから、自分でもよく分からない領域のものでしょう。

私は音楽をやっていて、薄々、自分でも気付いていたのですが、ある日、友人が私に、貴方の作品には悲しみが通底してある、みたいなことを言われて、ハッとなりました。
なるほど、私の心の底にはどうしようもない悲しみがあって、それが写真や音楽、詩に現れているのか知れない、と。
私は別に、悲しみだけを表現したいわけではありません。
そういうことを意識してやっているのではなく、パッション、もののあわれでやっているだけです。
心の動き、心が感じて動く、いわゆる感動をしてやっているのです。

他人からすれば、私の作品にはだいたいどれも悲しみを感じさせるらしい。自分で見返して、ああ、そうだな、と思いました。
それぐらい、私は自分の作品たちに無自覚なのですが、他人に言われて初めて気付くことはけっこうあります。
私の場合は、心の底に悲しみがあるらしい、ということは分かりました。

自分の心の底の悲しみを無視して、作品を作ろうとは、私は考えておりません。
この自分の心の底にある悲しみが、私の作品の限界だとしたら、それはそれで仕方のないことだな、と思っているからです。
貴方の作品は悲しみばかりだからダメだ、と誰かから言われたとしても、それが自分なのだろうから、変えようがないぜ、と思うしかありません。
それはもう、良い悪いではなく、あるものだから、仕方がないのです。
実感なんてものは、そんなものでしょう。
実感に良い悪いはない。
実感は実感です。
だったら、少しでも楽しく、充実感を味わえた方がいいと、私は考えています。

ちなみに、悲しい作品だと人から言われようとも、やっているこちらとしては、悲しいばかりではなく、音楽は特に、ワクワクしながら、楽しくやれています。

・身体性とは何か

養老孟司さんの「バカの壁」にも書かれていましたが、現代の日本には身体性が欠落している、というのがあって、私の好きな押井守監督の「イノセンス」はまさにそのことが大きなテーマとして扱われていますし、身体性の欠如、という問題は、今日、ますます深刻になっています。
身体性の欠如がどうして起こるのか、それは、頭で意識するだけの自分を過信しているからであり、インターネットを含めた情報社会になって、摂取する知識ばかりが膨大になっているからだと思われます。
簡単に言えば、頭でっかちになっているのです。

頭でっかちになる弊害は、知識を持っているから自分はもう分かっている、と錯覚してしまうことです。
分かりやすく言えば、知ったかぶりが増える、ということでしょう。
知ったかぶりの有益なことは、他人との会話が途切れにくいことです。
知識の引き出しが多ければ、相手の知識に合わせて話をすることがしやすいですから。
しかし、知ったかぶりの知識はにわかなので、実際にはほとんど役には立ちません。
職人芸というのがあります。
職人さんにとって、理論よりも実践が大事で、実践とは手を動かすことです。
分かりやすく言えば、身体性=職人芸だと、私は考えております。
そして、実際にやっている人間からすれば、あ、こいつは知ったかぶりしているぞ、とすぐに分かるものです。
底の浅さ、というのは、分かる人には分かるようになっています。

写真で言うと、写真とは、自分の目で見ることが大事で、それ以上のことなど、本当はありません。
プロカメラマンになると、いろいろな制約があるので、自分の目だけでは写真が撮りづらいところが多々ありますが、基本、写真作品で大事なのは、自分の目です。
ところが、知識ばかり増やすと、つまり、意識のみを過信して写真を撮っていると、どこかで見た写真しか撮れません。
モノマネになってしまうのです。
そして、今の若い人は特に、モノマネが得意です。
そこそこ体裁の整ったものを作る能力は、きっと、一昔前の若者よりも長けているでしょう。
それは、自分の目で見ていないからです。
自分の目という身体性を無視して、頭の中の意識で写真を撮ると、オリジナリティ、個性的な写真を撮るのはかなり難しくなります。

からしたら、誰かの写真がモノマネばかりの写真であっても、文句を言うつもりはありません。
ああ、意識でやっているんだな、パッションじゃないんだな、と思うぐらいでしょう。
ところが、そういうモノマネ写真しか撮れない人が、写真をやっていて充実感がない、とか、実感が持てない、と言い出したら、話は変わってきます。

この問題の根っこはかなり深いところにあるのではないか、と思いますし、充実感が持てない、実感が持てないことに悩んでいる写真学生を多く見てきていますので、これはヤバイのではないか、と個人的にかなり危惧しております。

・知らない人を撮れない写真学生

2年ほど前、とあるイベントで、写真学生が、知らない人に声を掛けて写真を撮れなくて悩んでいますがどうしたらいいでしょうか、と、涙声で写真作家の人に質問する場面に遭遇したことがあり、かなり衝撃を受けました。
知らない人に声を掛けられないのは、単純に言えば、その写真学生が人見知りだからでしょうけど、イベントの質問コーナーで涙ぐんでしまうほど深刻に悩んでいるのか、と。
そして、どうやら、このイベントに参加していた他の写真学生の中にも、同様の悩みを抱えていそうな気配がしました。

これは、簡単に言えば、他者が撮れない、ということです。
そして、写真とは、他者を撮るものです。
写真の基本は、自分撮りではなく、他者や世界を撮るものだということを、私は写真学校で学びましたし、写真論の著書を紐解けば、そのことは用意に知ることが出来るでしょう。
別に、基本に忠実に写真をやるべきだ、なんて堅苦しいことを私は言おうとは思っていません。
写真における常識は常識としてあって、それが出来なくて深刻に悩んでいる現役の写真学生(同じ写真学校を彼らは私の後輩であるのですが)が少なからずいることは、そうとうショッキングなことでした。

私が学生だった頃、今から十年以上前になりますが、そんなことで深刻に悩む写真学生はあまりいませんでした。
写真が撮れる学生と写真が撮れない学生の差が明白で、写真が撮れる学生はやる気のある学生、撮れない・撮らない学生はやる気のない学生、という区分けがはっきりあったからです。
もっと言えば、出来る学生と出来ない学生、この二つに分かれていたのです。
出来る学生は出来る学生で悩み、出来ない学生は出来ない学生で悩んでいたと思います。

私がショッキングだったのは、私が学生の頃だったら、そういう悩みを抱えている学生は、出来ない側の学生なんですね。
出来ない学生は、出来ない、ということを、けっこう自覚していました、私が学生の頃は。
そして、出来ない学生は、出来ないなりに学校に通って、写真を学んだり、イヤになって退学したりしたものです。
写真が出来ない、という明白な自覚があるのだから、こういうイベントで涙ぐんで質問なんてしないものなんですね。
出来ない学生は出来ない学生なりの居場所はあったように思うのですが、どうやら、そういう居場所がなくなっている、どうやら出来る学生と出来ない学生の区分がなくなって、平等主義みたいになってしまっているんだな、と私は感じました。

・身体性の欠如がもたらした悩み

知らない他人、というのは、自分にとって、まだ未知なる人のことです。
カメラとは基本的には、未知なるもの、世界を自分の目で見て、確かめて、写し撮る機械なのです。
端的に言って、未知なるものを知るための、確かめる為の、実感を得る為の道具なのです。
私が学生の頃は、人が撮れない、ということで深刻に悩んでいる学生はいなかったように思います。
もしかしたら、人しれず悩んでいて、そのことを、僕が知らないだけだったかも知れませんが、ほとんどの学生は、進級制作や卒業制作で、自分の家族や知り合いなどは撮れていましたし、そのことで叱られるということは皆無だったのです。
別に、まったく知らない他人をずっと撮る必要はありませんので。

ああ、でも、学生一年生の課題で、50人撮り、というのがあって、一人で街に出て、知らない他人に声を掛けて写真を撮らせてもらう、というのがありました。
これは、一人でやるのがルールで、学生同士がつるんで撮影するのは禁止、友人や家族などを撮ることも禁止していました。
私はこの課題が得意で、50人なんてすぐに撮れてしまうので、100人ぐらい撮っていました。
最終的に、私は、学生時代、知らない他人を300人以上は撮影したのではないか、と思います。
クラスメイトの中には、この課題が苦手な学生も当然いましたが、だいたい、無難にこなしていた記憶があります。
まったく撮れない、という学生もいたかも知れませんが、そのことで泣くぐらい深刻に悩んではいなかったのではないでしょうか。
ああ、私はダメだな、写真に向いてないな、ぐらいに思っていたのでしょう。
私からすると、学校の課題をこなせない学生は、それほど熱心な学生ではなかったので、適度に手を抜いて、何となく学校に通っていたように感じています。
写真学校の学生なんて、大半が、何となく興味があったりして、入学してきたぐらいのレベルですから。

この文章を最初から読んでいる人なら、何となく分かるかと思われますが、私はバカです。
バカだから、まったく知らない他人に声を掛けて写真を撮ることが出来たのです。
これは学校の課題だから頑張るぞ、と張り切って、撮ることが出来ました。
どうやら、色々な理由は考えられるのですが、簡単に説明すると、先ほどの写真学生は、自分がバカになれないことを、人前で泣いてしまうほど悩んでいるらしい。
バカになれない、つまり、意識が先に来るから、この自分の意識、知識や世界観などにないものがどうしようもなく怖いようです。
ただの人見知りなだけではなく、自分の意識が裏切られるのが怖いのではないか、と思います。

シンプルに言えば、知らない他人を撮ることとは、相手の了解を得て、他人の身体を撮影することです。
問題は、相手の了解を得られるかどうかで、そんなもの、断られたら、別の人に声を掛ければいいだけのことですが、どうやら、まず、断られるのが怖い。
撮りたいと思って声を掛けてみた、それを相手に断られるのが怖い。そういう、否定的な反応、言い方を強くすれば、相手から拒否されることがたまらなく怖いのでしょう。
こうなってしまうのは、自分を否定されたくない、という自意識であり、自分のセルフイメージが他者によって壊されてしまうのが怖いのだろうと、私は捉えています。

・身体性とは自分の不可能性を知ることである

前に才能のことを書きました。
ほとんどの人が幼い頃に、どうしても自覚しなければならないことの一つに、自分の運動能力、身体における他者との優劣があります。
私なんかは、運動音痴、さらには、音痴なので、そういうのが、まざまざと分かってしまうわけです。
体育の授業は苦手でした。
鉄棒の逆上がりは、中学生になって、出来るようになりました。
音痴は、最近、音楽をやり始めて、ちょっと改善されたようです。
身体能力というのは、明白な差が出ますし、陸上競技だったら、数字で結果が出ます。
何秒で走れた、かと、何センチ飛べたか、などで。
そういう競技の数字の記憶、スポーツが出来るか出来ないか、体育の授業などで、まざまざと分かってしまいます。
誰もが皆、イチロー選手のようにはなれません。
イチロー選手などの超一流選手は、努力だけでは埋めようがない才能があるのでしょう。
もう、これは、神から与えられたどうしようもないものです。
身体性を自覚することは、そういう、自分はイチロー選手にはなれそうにないな、とか、イチロー選手を越えられるかも、と自分の可能性や不可能性を実感することでもあります。
自転車に乗れる、乗れない、というのも、身体性です。
別に難しい話ではありません。

そういう身体性は、嘘をつきません。
足が早い、遅い、とか、そういうのは、歴然とした事実としてあります。
出来ることは出来るし、出来ないことは出来ない。
そういうことを自覚して、人は生きています。

ジャッキーチェンの昔のカンフー映画には、必ずと言っていいほど、主人公の修行シーンが描かれていました。
映画・ベストキッドでも、カラテを学んでいる不良にコテンパンにやられたオタクの主人公が、空手を学んで、試合でリベンジする、というストーリーです。
ここでは、弱くて悪党にやられた主人公が、辛い修行を乗り越えて、悪党に復讐して勝利する、という筋書きがあったのです。

出来ない、不可能だったことを、身体を鍛えることで、克服する。
ここにはまず初めに、出来ない、という自分の不可能性、挫折があります。
この挫折を乗り越えて、強くなるわけです。

頭でっかちになってしまうと、知識だけは豊富に持っているので、だいたいのことは人並み以上に出来ると思い込んでしまいがちです。
言ってみれば、カンフー映画を見て、自分は強くなった気になるようなものでしょう。
実際は、そういう気になっているだけで、まったく強くなっていないのです。
写真に置き換えれば、写真学生なのだから、最初から上手く撮れなくて当然だし、いきなり赤の他人に声を掛けて、撮影を断られるのも当然です。
街を歩いている人の中には用事があって忙しい人、声を掛けてきたこちらを警戒して断る人がいて当たり前ですし、逆に快く撮らせてくれる人の方が少ないぐらいです(相手に断られるか撮らせてくれるかの割合は、人によって異なるので、一概に言えませんが)。
学校の課題は、ジャッキーチェンの昔の映画で言えば、修行なわけです。
最初から出来るとは限らない。
様々な紆余曲折があって、やがて出来るようになるように、カリキュラムが組まれているはずです。

・意識は未知を恐れる

意識というのは、知っていることをあれこれと考えるようなところがあります。
情報は、あれこれと考えるヒントや素材になるでしょう。
私は別に、意識的だからダメだ、と言いたいわけではありません。
人間と他の動物を分け隔てているのは、意識を持っているかどうかだと思うのです。
人間は知識を蓄え、学習することが出来る。
これがあって、人間は今の地球で文明を残し、文化を繁栄させることが出来ています。

意識というのは、知っていることには強いのですが、知らないことには弱い一面があります。
特に、これだけ情報が溢れて、情報過多になった今の時代だと、やっていないこと、やれないことでも、やれたと錯覚しても仕方がありません。
情報や知識が周りに氾濫していたら、だいたいの人はわかったつもりになってしまいます。
しかし、これは、わかったつもりになっているだけで、わかっているわけではありません。
わかる、というのは、やれるようになることです。

言葉で説明すると、他人と喋れるようになったり、こうして文章を書けるようになることです。
単語を暗記したり、文法を学ぶだけでは、実用では使えません。
知識ばかりの頭でっかちな意識的な人は、単語を知っていたり、文法は知っていても、実際に喋れたり、文章を書けないわけです。

身体性とはまず自身の不可能性を実感させるものだと、先ほどの書きました。
では、身体性が欠如していて、意識ばかりでものを考えている人とはどういう人なのでしょうか。
自分の不可能性、また、裏返して、可能性に関しての実感がなく、自分の知らないことを意識は出来ませんから、自分の知らないこと、未知を知らず識らずのうちに避けてしまうでしょう。
従って、見ず知らずの他人に声を掛けて写真が撮れないのではないでしょうか。
まぁ、そういうのは向き不向きがありますので、ただ単に、人見知りだったり、接客業に向いていない、というオチだった、かも知れませんけどね。

・意識の傲慢さ

とある写真学校で、「パリの素顔」というタイトルのゼミの写真展が行われたことがあります。
私は、この写真展に行かなかったので、具体的な内容は知らないのですが、この「パリの素顔」というタイトルは嘘八百だな、とすぐに感じました。
この写真展、とある写真学校が、フランスの提携している写真学校の交流学習で、パリに行ったときに、街にいる外国人たちに声を掛けて撮らせてもらったポートレートの合同写真展だったようですが、パッと出掛けた日本人の写真学生たちが、パリの素顔なんて撮れるわけないからです。
撮られる側からすれば、見ず知らずのアジア人、外国人なわけで、自分に照らし合わせて考えてみれば、すぐに分かることです。
街を歩いていたら、フランス人が写真を撮らせて欲しいと声を掛けてきた。
それで写真を撮らせてあげた、として、自分の素顔なんて、このフランス人に晒せるものではないですよ。
ああ、外国人に写真を撮られている、という意識で頭の中がいっぱいなはずです。
まず間違いなく、よそゆきの顔やポーズになってしまう。

写真を知っている人なら、そういう取り組み方をして、「パリの素顔」なんてタイトル、恐れ多くて付けれません。
「パリにいた人たち」ぐらいのタイトルが相応しいでしょう。
常識で考えれば、いくらなんでも素顔は撮れないぞ、と分かるはずです。
しかし、この写真展のタイトルは「パリの素顔」でした。
いくらなんでも相手や写真に対して傲慢じゃないか、と私なんかは思ってしまいます。

これは、今思うと、学校側や学生達の、パリの素顔が撮れているはずだという思い込み、意識がさせる錯覚であって、自分の目で自分たちの写真が見れていない証拠だと感じています。
自分の目で見たら、ああ、よそゆきの顔をしているな、さすがパリの人たちは日本人と違って絵になるなぁ、なんてすぐにわかるはずです。
自分の目で見ようとしていない、つまり、相手がどういう風に写真に写っているか、気にしていない、ということでしょう。
「パリの素顔」というタイトルだけで、私は実際には写真展を見ていないので、もしかしたら、パリの素顔が写っているのかも知れませんが、まず絶対に、そういう写真は一枚もなかったはずです。

そもそも、素顔なんて、なかなか撮れるものではないのです。
相手が心を許し、こちらも許せる関係がまずあって、相手がこちらを信頼してくれない限り、相手は素顔を写真に晒してくれません。
素直な素顔を撮るのは、実は、かなり難しいのです。
例えば、母親が自分の子供を撮った写真、そういう中に、子供の素敵な素顔が写っていることがあります。
ああいうのは、母親だから撮れたのであって、いくら写真の腕があっても、他人では撮ることが難しいのです。
特に、子供は大人よりもシャイなので、変な顔をしたり、顔を背けたり、気取ったりします。

家族とか、親友だとか、恋人、そういう間柄だからこそ撮れる写真はあって、赤の他人に声を掛けて、いきなり撮影させてもらっても、相手の素顔なんて撮れません。まず、撮影するこちらが相手に対して、なかなか素顔になれません。
でも、頭でっかちで、意識だけで写真をやってしまうと、素顔が写っているはずだと、思い込んでしまう。
自分の目で見ていないから、結局、相手のことがわからない、見えていないのです。
先ほどの、知らない他人が撮れない写真学生は、こういうわからないことの恐怖や不安から、撮れなくなっている可能性もあります。
自分の目で見れば、この人は大丈夫そうだな、あの人は大丈夫じゃなそうだな、ぐらいの判断はつくはずなんですけどね。
実際に大丈夫か分からないのが、人間の心の闇というものですが、いきなりとって食われるわけでもないでしょう。
いきなり殴りかかってくるとか、そういう凶悪にして凶暴な人は、滅多にいるものではないですからね。

ちなみに、この写真展の話を私の友人にしたら、「パリの巣鴨」だったら見に行きたいな、と言っておりました。
巣鴨というのは、東京にある地名で、おばあちゃんの原宿と呼ばれているところです。おじいちゃんやおばあちゃん御用達の商店街がある町のようです。
パリにも巣鴨のような町があった、なんて内容の写真展だったら、素敵だな、と私も思いました。

・実感が持てないのは、意識ばかりが働いているから

この文章の中で、充実感がない、実感がない、という人に対して、私は、肉体労働をしてご飯を食べたらいいんだ、みたいなことを書きました。
これは冗談なんかではなく、意識ばかりで、身体性が機能していないから、頭を空っぽにして、身体を動かして、ご飯を食べて、ウンチしたらいいんじゃないか、というかなり具体的な意見です。
そうしたら、ちょっとは充実感があるはずで、疲れたとか、お腹が空いたとか、ご飯が美味しいとか、満腹だとか、ウンチが出たという実感が湧くはずです。

創作に関していえば、上手くやってやろう、とか考えてやるよりも、無心に手や身体を動かした方がいいと思います。
他人の評価を気にしながらやるのではなく、自分の心の底にある声に耳をすませてみる。
意識ばかりでは、自分の心の底の声なんて聞こえてきません。
心の底は、頭の中にあるわけではないからです。
心は、頭だけにあるのではない。
目や手、舌とか、耳とか、そういう五感に繋がっています。
美しいものを見て心を奪われる、美味しいものを食べて幸せを感じる、音楽を聞いてジーンとなる、そういう心の動きだってあります。
頭で考えてばかりでは、そういう五感がきちんと機能していないのです。
写真で大事なのは目だし、音楽で大事なのは耳です。
意識だけでは、狭っくるしい。見えているものを見ようとせず、聞こえているものを聞こうとせず、あれこれと決めつけて傲慢になってしまうこともあります。

自分に正直になって、やってみた結果、いい作品が出来なかった。
もしそうなら、仕方がないことだと思います。
所詮、自分はそれだけの人間だったのです。
それだけの人間なんだ、ということを知って、やっていくしかありません。
そうやってやっていけば、そのうち、いい作品が出来るようになるかも知れませんし、個性的な作品は出来ると思います。
この個性的な作品が、自分の望むものと違っていたとしても、これまた仕方がありません。
本来の自分と、望んでいる自分というのは、かけ離れているものだからです。
本当の自分なんてものは、身も蓋もない、どうしようもないものだというのが、私の持論です。

私自身のことを言えば、私には他人を見下すところがあったな、ということに、ようやく、自覚的になれました。
自覚して、これはみっともないからやめよう、と強く思っています。

「パリの素顔」の話は、分かりやすいと思って書きましたが、実際に見たわけではないので、本当はとても素晴らしい写真展だったかも知れません。
もしそうなら、ごめんなさい、と心の底からお詫びします。
私は、この写真展の前に行われた、同じ写真学校の進級制作の写真展と、卒業制作の写真展に出向いて、実際にこの学校の学生たちの写真作品を見ておりますので、内容の出来に関しては、多分、間違いないだろうな、と判断しております。
決して、見下しているつもりではありません。

・実感が伴わないということは、辛いことである

この文章で私が書きたかったことは、実感が伴わないことは辛いことである、ということです。
また、実感が伴わず、意識ばかり働かせていたら、他人や自分のことを勝手に決めつけて、他人を平気で見下すような傲慢な人間になってしまう可能性もあります。
それこそ、私以外の人が、他人を見下していようとも、私とは関係がないので、別に構わないのですが、私自身は、そうはなりたくないので、自戒の意味も込めて、書きました。

実感がない、というのは、実際には何もわかっていない、ということに他なりません。
自分の目で見ることが出来ない、自分の耳で聞くことが出来ない、そうなっているとしたら、実際は、自分の都合だけで見ているだけ、自分の都合だけで聞いているだけに過ぎないでしょう。
意識は、未知、つまり、わからないことを恐れます。
わからないことに不安を募らせ、さらに意識の森を彷徨うようなことにもなってしまうかも知れません。
充実感がない、というのは、私が思うに、意識の森で迷子になっている状態ではないでしょうか。

自分に素直になってみると、自分が想像していた以上に、何も持っていない、何もないことがはっきりと分かってきます。
それは、惨めで、孤独なものです。
惨めで、孤独だからこそ、ちょっとしたことで充実感を味わうことも出来るようになるのではないでしょうか。
人の思いやりに触れたり、人に優しく出来たり、ご飯を食べたり、ウンチをしたり、そういう、日常のありふれたことでも、新鮮な気持ちで、充実した気持ちが味わえるかも知れません。
この世界には酸素があって、自分は息をしている。
そんな当たり前なことも、考えてみれば、かなり不思議なことです。
わかっているつもりでもわからないこと、自分や世界には、実はわからないことがたくさんあります。
パワースポットは、どこかの奥地だけにあるのではなく、自分の住んでいる近所にもあるかも知れないのです。
ただ、そういうことに気付いていない、気付こうとしていないだけかも知れません。
パリの素顔はなかなか撮れないけど、パリの巣鴨はもしかしたら撮れるかも知れない、そう想像するだけでも愉快なものです。
意識している自分だけが自分というわけではありません。
意識していない自分と、意識している自分が混ざり合って、今の自分は存在していると、私は思うのです。
そのどちらがいいとか悪いではなく、いろいろな自分がある。
好きな自分がいる一方で、嫌な自分もいるでしょう。
好きも嫌いも自分なんだから仕方ないじゃないか、というのが、私自身の、私への考えであります。
怖がらずにやっていたらいいのであって、出てきたものも間違いなく自分なんだから、とりあえずそれでいいじゃないか、という気持ちでいます。
自分を知り、自分を信じるというのは、そういうことではないでしょうか。