あれこれ

あれこれ。

音楽にハマる。
それは楽しいことではあるのだが、我に返ってみれば、写真が撮れていない。
毎月のノルマである1000枚がおぼつかなくなりそうなので、オリジナルアルバムを制作して、一旦、形にして、また、先月の写真は25枚ほどプリントしたのだが、それもとっととプリントし終えて、今月の撮影へ意識を向ける。
とりあえず、今日も撮影に出かけて、今月は今のところ、500枚ほど、撮影した。
あと、500枚、時間を見つけて撮らなければならない。

アルバムは、制作に約5時間(曲の制作は除く)かかった。
友人や知り合いに渡せればよかったので、8枚、製作した。
全て、自分の手で、自宅のパソコンやプリンターを用いて、作ってみた。

先日、あ、これだったらアルバムが一枚出来るな、という全体のイメージが、仕事の休憩中に浮かんできた。
そのまま、細かいディテールまで考えていって、仕事が終わってから、家に帰ってきて、CD制作に取り組んだ。

アルバムの出来については、今は考える気になれないので、出来た、という事実があるだけなのだが、作り終わって、しばらく、音楽のことを考えるのはやめておこう、とは考えている。

こうやって形にすると、自分の中で、ケリをつけることが出来ることが多い。
一旦出して、空っぽにして、新たに取り入れる、取り組む。

アルバム作りでは、ただ、曲を制作するだけではなく、曲順や、ジャケット、アルバム全体のイメージも自分で決めて、デザインしたりした。
それは、総合的な力のバランスが求められる。
今回は、多分、上手く行ったのではないか、とは、感じている。
ジャケットの写真と文字のデザインが、特に、上手くいったようには思う。

僕はずっと、デザインと音楽に、強い苦手意識があった。
それは、今、思えば、子供時代に植え付けられた環境によるセルフイメージの為だったのかも知れない。
自分はセンスがない、ダメだ、と。
事実、周りと比べて、センスがなく、ダメだったとも思うのだが、30歳を超えて、デザインや音楽に対して、少し積極的な気持ちになってきている。
この間、カラオケに行って、歌ってきたのだが、以前に比べて、音が聞けるようになっていて、メロディやキーの取り方が、理屈ではなく、耳と体で、分かるようになっていて、ビックリした。
その代わり、歌っていて、けっこう疲れた。
久しぶりにカラオケに行って歌った、というのもあると思うけど、耳や体に、自身の声、喉がついていけていない、というのが、はっきりと感じられた。

音楽にしても、デザインにしても、僕は、突飛なことをしようとはしていない。
自分の中の当たり前を、当たり前にやろうとしているだけである。
要は、それだけでよかったのだ。
自分の中の当たり前はすでにあるから、それで悩むことはない。

音楽に関しては、よく、YMOの曲を聞いている。
今日は、撮影しながら、歩いて、ブックオフまで行って、ダフト・パンクのインターステラ555というDVDが500円だったので、購入して、今、文章を打ち込みながら、テレビで流している。
音楽のことを考えないようにしている、と言っても、毎日、音楽は聞いている。
今日も、撮影しながら、HMO(初音ミクオーケストラ)とHASYMOの曲を、iPhoneYouTubeで、イヤホンで聞いていた。

今日、ブックオフに、撮影を兼ねて、出かける前に、昼食を食べながら、録画していたアメトーークを見てみると、写真かじっている芸人、
という特集だった。
その番組の中で、芸人の小藪さんが、他の芸人より群を抜いて写真に詳しく、多分、フィルムカメラの時代からの愛好者だと思われるのだが、他の芸人のベストショット写真について、カスのような写真だとか、偉そうな態度であった。
写真に関して、小藪さんの言っていることは、僕が聞いていて、だいたい合っているな、とは思ったのだが、そういう息巻いている写真愛好者っているなー、と思いつつ、あ、自分もそうかな、とちょっと思った。

よく人から偉そうだと言われてきたし、自分でも、偉そうだな、と自覚したりする時があって、近頃、ようやく、そういうのは表に出さないように気をつけるようにした。
これは、傲慢だと思われるかも知れないが、他人に関して、言っても仕方がないことが多い、ほとんど意味がないことに気づいた、というのが大きな理由ではある。
そんなことよりかは、趣味でやるのであれば、楽しくやれればいいのであって、それ以上に大切なことはないように思う。
さらに、充実感が伴えば、言うことはない。
そして、他人から褒めてもらえれば嬉しいわけだし。

今日、ブックオフで買ってきたのは、村上春樹さんの1Q84の一巻と二巻、三角みづ紀さんの「骨、家へかえる」、養老孟司さんの「バカの壁」と「死の壁」、あとは、ダフト・パンクのDVD(合計1050円)。
バカの壁」は十年ほど前に買って読んでいて、その時は、僕が想像していた内容と異なっていたので、ガッカリして、読み終えたらすぐに捨ててしまったのだが、養老孟司さんへの僕の評価が変わってきて、改めて、興味があったので、買って、先ほど、少し読んでみた。

バカの壁」を38ページほど読み進めて、思ったのは、これは認識についての本なんだな、ということ。

以前、ここで、写真とは知的認識である、みたいなことを書いた。
それはそうで、それは、「バカの壁」にかなり通じることである。
バカの壁」、再読してみて、面白い。
ブックオフで100円でよく売られているので、興味のある人は買って読んでみればいい。
僕から言わせてもらうと、写真をやる上で、これぐらいのことは理解できないと、難しいだろうな、と思っている。
これは、実際に、写真撮影、写真論の基本のようなところを扱っているな、と。
だから、子供では写真は難しい、ほとんどムリだと考えているのですが、ちょっと「バカの壁」を読んで、ああ、だから今の人たちは写真が難しいんだろうな、と改めて思った。

バカの壁」がどういう内容の本なのかは、自分で手にとって読んでみるのが一番いいし、ここで解説などするつもりはない(僕はちょっと再読しただけだし)。
手に入りやすい新書で、値段も安いので、興味が湧いた人は購入をオススメする。
買って何度か読むだけの内容はある本だと僕は思うので。

写真を撮るのが難しくなっている理由を自分の頭で整理して簡単に認めると、まず、わかりやすくいえば、受験勉強というのがある。
あれだけを、勉強だと思い込んでしまうと、自分の頭で考えて、判断して、認識することにそうとうな足枷をかけてしまうことになってしまう。
探究心も、好奇心も、疑問に思う心すら、意味も価値もないものにしてしまう。

勉強というのは、自分の中で沸き起こる探究心、好奇心、違和感のようなものから始めなければ、本当の意味で意味や価値を持つものにはならないように、僕は以前から感じている。
それは、勉強だけではなく、創作、しいては、人生に関して、そのような考えでいる。

受験勉強というのは、まず、答えがある。その答えはだいたい一つで、その答えに辿り着ければ正解、そうでなかったら不正解、そして、全生徒、全学生は、その一つの答えに辿り着けるようになるのが正しくて、辿り着けなければ間違いだと教え込まれる。
しかし、写真には、つまり、この世の中、存在というものに、答えなんてあってないようなものだし、そんなことにそれほどの意味や価値などない。
そして、たった一つの答え、とどのつまり、認識、ものの見方などない。
さらに言えば、認識には身体が関わっている。

写真が難しいもう一つの理由は、身体性の欠如である。
今の世の中、ネットなどで簡単に情報を知ることが出来る、興味があることを調べて、知ることが出来る。
それは、意識のことであって、知識を満たすことは出来ても、分かっているわけではないのだが、知識、情報のみで、知っていると錯覚している人が多いようである。
そこには血が通っていない、分かるというのは、ただ、頭で理解するだけではないのだが、それが理解することだと、そして、自分は物分かりがいい人間だと思い込んでいる人はけっこう見受けられる。

当たり前の話だが、写真は、目がなければ出来ない。
音楽は、耳がなければ出来ない(例外はあるが、それは例外である)。
目がなければ出来ない、目で見ることが何よりも重要であり、写真なんてほとんどそれでしかないようなものである。
しかし、目で見ることが出来ない。
見ているつもりになって、その「見る」という行為の中に、知らず識らずのうちに、「答え」を探している。
その「答え」とは、その自身の価値観であるのだが、その価値観は、答えが一つしかない、そして、全人類が共有しているものだと勘違いしてしまっている。

言い方を変えれば、最大公約数でものを見ている気になっている、そういうものを見る態度が、自覚無自覚に関わらず、染み付いている。
最大公約数でものを見ている、というのは、目の前のものを見ていない、ないがしろにしてしまっている、ということでもある。
存在そのものの全的なものではなく、目の前のものの部分をピックアップして、それでもって、共有認識だと錯覚している。

目の前のものは、ただ、目の前のものである。
全的とは、そういうことなのだが、それに気付かない。
全的なものの見方の場合、ものそのものの固有性はあってないような、でも、必ず備わっているものであるのだが。

僕は音楽をやっていて、音楽知識などほとんど皆無である。
そういう人間が、YMOの曲を聞いて、参考にしながら、自分でシンセでもって、音楽をやっているに過ぎない。
僕は、頭で考えて、YMOの曲を聞いているのではない。
自分の耳で聞いているのだ。
ただ、それだけのことをしている。しようとしている。
僕は、音を聞いて、テクノとはこういう感じかな、と思っているだけ。
僕自身は、テクノをやりたいわけではなく、シンセを使っているので、テクノっぽい感じの方がやりやすいし、自分はそっちの方角で音楽をやった方が向いていそうだな、と思っているから、YMOの曲を毎日聞いて、参考にしているだけで、真似しようなどと思っているわけではない。
音を自分の耳で聞いているだけの話である。

写真も同じことで、自分の目で見るだけのことではある。
自分の耳で聞いて、目で見て、その先に答えがあるわけではない。
その先は、自分で決めていったらいい。
発見したりしながら、出来れば楽しく、やればいいだけのことではある。
僕は自分で撮りたいもの、奏でたい音を出せばいいし、貴方もそうすればいい。
そこに、あらかじめ誰かが決めた「答え」など存在しない。

と書いてはみたものの、そういうのは、言葉でどうにかなりそうなことではないだろう。
ほとんどの場合、言っても仕方がないことである。
大袈裟に言えば、言葉(意識)ではなく、細胞レベルで感じなければ、どうにもならないことのように、僕には感じられるので。