教育について考えてみる。

教育について考えてみる。

体罰が原因で自殺してしまったバスケットボール部の男子高校生の記事をさきほど読んで、うーん、と思ったので、自分なりの考えをここで書いておきたくなった。

何やら、体罰がいいのかわるいのか、という議論があるようで、体罰がいいかわるいかなんて、ケースによって異なるのだから、一元的に決めつけるわけにはいかないだろう、と僕は思う。
はっきり言えば、体罰をふるってもいい教師と、体罰を与えられたほうがいい生徒がいる一方で、体罰をふるってはいけない教師と、体罰を与えてはならない生徒がいて、それらは、状況で変化する。
人間なんてそんなものだろう。
人間は平等ではない。
体罰が愛だとして、行きすぎた愛は、果たして、相手にとっても愛なのか、考えてみればいいのだし、心は常にここにあるわけではない。
心は不変かつ、非常なものなのだから。
多分、体罰はツッコミの一種だと思う。
そして、ツッコミは暴力でもありうるものだろう。
ボケとツッコミの関係性には、暴力的な笑いがある。
ボケとツッコミの間が、笑いになったり、笑いにならなかったりするように、これは、行為である以上、片方だけの問題では片付けるわけにはいかないだろう。
つまり、間がわからない人は、体罰をふるってはいけない人なのだ。
そして、間がわからない人に、体罰を与えるべきではないだろう。

そもそも、僕が疑問なのは、学校教育の在り方であって、あんなもの、穴だらけのどうしようもないものだと、今でも感じている。
体罰以前に、教育そのものに対して、僕は不信である。
あんなもの、なくしてしまったほうがいいんじゃないか、とさえ、時に思ってしまう。

だいたい、例えば、バスケットボール部で、全国大会で優勝出来た、として、それがどれほどの価値があるのか、僕にはわからない。
価値などさほどないのではないか。
たかだかバスケットボールじゃないか。
もう、そういう全国大会だとか、そういう価値観が、僕にはどうでもいい、いいかげんなものに思えてしまう。
それよりかは、バスケットボールというスポーツを楽しみ、目をキラキラさせて、学校生活を充実している方が、よっぽど素晴らしいと思う。
目をキラキラさせる目標の一つに、全国大会で優勝する、というのなら、わかるのだけど、辛い思いまでして、目指す必要があるとは、僕には思えない。

そもそも、教育というものがいかがわしい。
理不尽な教師がいたら、辞めさせるように、生徒が運動を起こせばいいのだし、我慢出来ないのなら、ぶん殴ってしまえばいい。
もし、それで、生徒に殺される教師が現れたとしても、僕は、仕方がないことだと思う。
教育というものは、それぐらいのもの(命懸けのもの)だと、僕は考えているから。
学校という体制があって、それが気に入らないのなら、戦えばいい。
そういうことを、子供達に教えない方が、問題のように感じられてならない。
教育は、絶対ではない。
言ってしまえば、正しい教育があるとしたら、間違った教育もある。
体罰をふるわないことが正しい教育なんて馬鹿げた話で、体罰をふるわないことが間違っている場合だってある。
いつだって、正しいと、間違っている、というのは、曖昧なもので、そうそう簡単に理解し、実践できるものではない。
それぐらいのことは、大人たちは身に染みた上で、子供達に接して欲しいものだけど、正しいだろう、というのを、正しいことにして、多くの大人たちは生きて、この社会は成り立っている。
正しいかどうかは、常に、曖昧なものなのだ。
この、絶対的な不安に、多くの人たちは耐えることが出来ない、ただ、それだけの話ではある。
だから、正しいとされているであろうことを、正しいと断じて、生きていかざる得ないだけなのだが、そのことに自覚的な人が、それほどいるとは思えない。

写真に関して、僕は専門学校で、教育を受けてきた。
今では、もう、ほとんど訳に立たない、自分と実力がともなわない、理屈のみの、どうしようもないものに成り果てたから、一日一日、どうにか捨てようと試みている。
あれらは、今の僕の写真の邪魔をしている。
根拠もなしに言っているのではなく、実際に確かめた、教育者の写真作品を卒業してからも見てきた。
見て、どの程度の写真なのか、僕なりに吟味した結果である。

これだけは、はっきりしている。
今、多くの写真学生(特に女子)に必要なのは、離人症をどうにかする方法だ。
自身の離人症で苦しんでいる写真学生を、僕はけっこう見てきた。
そのことに応えてくれる教師は、まだ一人も出会っていない。
言ってあげればいいのに、と思う。
「あなたに必要なのは写真を撮ることではなく、あなたの悩みをどうにかすることでしょう」と。
そして、教師に、良心があるのなら、「この世に救いはない」と言ってあげればいいのに。
だって、救いなんてないのだもの。
そこから始めないとどうしようもないと、僕は思うのだけど、そんなこと、子供に言える大人はまずいないだろうね。

教育者は、教えている側に、過度の期待をしない方がいい。
教えている側の都合があるように、教えられている側にも都合がある。
教えても、出来ないものは出来ない。
教えなくても、出来るものは出来る。
例えば、いじめがあったとして、教育者自身の生命を賭する覚悟がなければ、いじめはどうにもならないでしょう。
口だけなら何とでも言えるから、生命を賭する、なんて。
いじめられている生徒がいて、あ、これは死ぬな、という時に、自分の命をかけて、いじめらている生徒を守ることが出来るのか、ということなんだよ。
その時に、いじめている生徒たちを呼び出して、ボロボロになるまでぶん殴れるのか、というさ。
そんなことしたら、教師をクビになるだろうけど、いじめられた生徒は自殺しないんじゃないかな。
体罰というものが、それぐらいの重みをもってなされたものだったら、僕は、一人の人間として納得できるな。
それが正しいのかどうかの前に、納得は出来ると思う。

怒る、というのは論外だとして、叱る、というのも、叱られた方は辛いもので、さらに、出来ない、ということも、辛いことなんだけど、出来るようになった人たちは、出来ないという辛さを忘れてしまいがちなものかも知れない。
出来なくて、他人から叱られるのは、辛いものだよ。
だから、叱られてばかりじゃなくて、どこかに逃げ道がなければいけない。
いじめで自殺してしまう、とか、そういうのも、いじめの内容が過激になっている、というのがあるとは思うけど、いじめられている側に、逃げ道がない、ということも大きな原因じゃないか、と僕は思えてならない。
その逃げ道に社会的な意味や価値が与えられていないから、無意味で無価値なものになって、居た堪れなくなってしまうんじゃないかな。
居場所がない、というのは、そういうことだと思うね。
まぁ、僕は居場所がなかった人間で、今でもちゃんとした居場所が自分にあるとは、あまり思えないけど。
居場所なんてないものなんだ、という諦めというか、自覚があるだけで。
そう思えたら、楽なんだろうけど、それは、はたからみたら、イタイ人だろうから、居場所がないのが、辛いと思っているのかも知れないね。
それで、無理やり、自分を殺して、その場に順応しようと人しれず頑張っているのかな。
それは大変なことだし、辛いことだね。
もう十分に頑張っていると思うよ。
だから、僕は、そういう人に、頑張れと言うつもりはないな。
頑張っているかどうかなんて、他人にはわからないものだもの。
頑張ってもどうしようもないことはあって、でも、何とかしたいとあがいているのが人間だから。
大人は大人で辛いけど、子供は子供で、きっと、いろいろと辛いでしょう。
子供は子供なりに悩んだり、頑張っている。
頑張りというのは、だいたい、報われないものだけど、大人だったら、子供のそういう頑張りを、認めてあげればいいんじゃないかな、と僕は思うよ。
まずは、そこからじゃないのかな。

子供は子供だから、しんどいんだ。
ただ、生きていることがしんどい、ということがどういうことなのか、わからない大人は大勢いて、そういう大人が教師だったりする。
そういう教師では、どうしたって、子供のしんどさはわからないね。
子供は子供だから、しんどいんだ。
昔はどうかしらないけど、今はそういう時代なんだ。

しんどいって、なかなか理解出来ないことなんだよ。
けっこう難解なものみたいだね。
しんどいということを理解することは難しいことなんだ、ということぐらいは、理解しておいて欲しいな。
この文章は、途中から、大人に向けたものではなく、子供に向けたものになっているんだけど、大人というのは、ダメだからね。
難解なことを平気でなかったことにしてしまうのが、だいたいの大人なんだから。
だから、理解できる、とか、理解してもらえる、とか、そんな虫のいい考えはとっとと捨てた方がいいかもしれない。
理解出来ないし、理解してもらえないのが、人間ってものだよ、人間の限界っていうのは、どうしたってあるんだから。

自殺したら楽になれる、と本当に感じているのなら、自殺したらいいと思う。
生きることは、生きるというだけで、過酷なものだから。
その過酷さに耐えられないようなら、自殺することも選択肢に入れておけばいいと思う。
自殺したくないのなら、戦うこと、を決意するしかないだろうね。
逃げることも立派な戦いだよ。
逃げたら、恥ずかしいでしょ。そういう、恥ずかしい自分と戦わなくちゃいけないんだからさ。
恥ずかしかろうとも、みっともなかろうとも、生きることを選ぶのか、そういう自分に耐えられそうもなく、自殺することを選ぶのか、それは、自分の人生なんだから、自分で決めればいいと、僕は考えている。
生きることは、既に、恥ずかしくて、みっともないことなのだ。
そんな当たり前なことさえも、学校教育というものは、教えようとさえしていないんだ、バカみたいだね。
学校教育も、この世の中も、社会も、穴だらけの欠陥がたくさんあるということは、自覚しておいた方がいいかな。
だから、正しいか間違っているのか、曖昧なことなんだ。
正しいとされている学校教育、正しいとされているこの世の中、正しいとされている社会、正しいとされている生き方、正しいとされている常識、そういうものたちが、本当に正しいのか、自分の目で、自分の頭で、吟味して、疑って、判断していかなければいけない。
そして、判断している自分を、一番、疑わなくちゃいけない。
それが、学問であり、思想というものだよ。

これだけは書いておきたい。
自殺することも、その人にとっては、立派な戦いだよ。
自殺することが正しいのか、間違っているのか、僕にはわからないけど、その人にとっては、戦いなんだ。
それが、戦いだった、ということを、僕は認めたいとは考えている。