たまには写真のことを書こうと思う。

たまには写真のことを書こうと思う。

昨夜、思い出したことがある。
先日のブログで書いた、先輩カメラマン兼社長が、数年前に、とある女性カメラマンを撮影したことがある。
先輩カメラマンはメイクも出来るので、女性をメイクして、スタジオで撮影したのだが、その写真の出来に、モデルになった女性は落胆していた。
何故なら、メイクも含めて、このモデルの女性には合わなかったからで、僕の目から見ても、写真よりも実物の方がよっぱどよかった。
本来のよさを活かすことなく、殺してしまっていた。

先日の飲み会で、例の保険屋が、来ていた人にiPhoneの待ち受け画面を見せていた。
その画面には、保険屋自身と、自分の子供を抱いている写真が映し出されていた。
この写真は、以前、iPhoneで僕に見せてくれた子供の写真の中で、僕が一番いい写真だと思ったもので、その感想を率直に相手に伝えていた。
保険屋は写真のことに疎い。
どうやら、僕はかなり強めに、この写真をベタ褒めしたので、これはいい写真だと思ったようだ。
この写真は、保険屋の奥さんが撮影した写真で、とてもよく旦那と自分が生んだ子供を見ている。
また、旦那の表情が笑顔で素敵だった。
こういう写真は、いい写真である。
そのように伝えて、それからiPhoneの待ち受けにして、知り合いに見せている姿は、かわいらしい感じを受けた。

写真の腕は関係がないところで、撮影者と被写体の相性、関係性が写真の写りを左右することは多々ある。
仲の良い恋人を撮影したり、自分の子供を撮影したものは、なかなか他人には撮れない表情や、写りをする。
これは、プロのカメラマンでも、まず、撮れない。
写真を当たり前に楽しみながら撮る、ということの中には、そういうことも含まれる。
だから、僕は、自分が撮れないものを、作品ではあまり撮っていない。
撮れないものは撮れない。
何でも撮れる、と考えるのは、一種の傲慢なのかも知れない。

先日の飲み会に来ていた二人の新人カメラマンは、共に、何でも撮れるようになりたい、と言っている。
新人だから、そういう気持ちなのだろう。
僕は、何でも撮れるようになるのは、自分では無理だとわかっているから、自分が撮れる範囲で、いいなぁ、とずっと思っていられるような写真を目指して、写真に取り組んでいる。

先輩カメラマンの悪口を書きたいわけではないのだが、思い返して、少し考えたことがあるから、そのことを書いていく。
そのカメラマンは、多趣味な方で、趣味といっても、プロレベルだったり、他人から、うまいですね、と言われるぐらいの腕前を持っている。
そのことは、すごいことだな、と思っているのだが、話が楽器演奏になって、この方は、そういうことも含めて、自分のやっていることを、ビジネスか女性を口説くのに結びつけている、と自分で言っていた。
ピアノやサックスなどを演奏出来るようで、それは、女性の前で演奏を披露すればムード作りにもってこいだから、と言っていたのだが、僕には、そのような考えがほとんどないので、あまり理解出来なかった。

僕は、電子キーボードを買ったし、ニンテンドーDSのソフトを使って、シンセサイザーを演奏したりして、音楽を楽しんでいる。
それは、多分、他人から言わせれば、うまいものではないし、ムード作りに使えるものではない、なによりも、僕自身に、そのような意識がない。
単純に、僕は、そうやって、演奏するのを、楽しんでいるだけだから。
だいたい、キーボードは、本当に下手くそだ。
写真にしても、うまいね、と他人から言われるような作品は、数枚しかないだろう。

もともと、キーボード演奏は、とある女性に向けて、実践するとはどういうことかを伝えるために、あえて、自分が不得意なものを続けてきた、という「下心」がある。
だから、下手である、ということに、さほどの引け目や羞恥心はない。
だって、不得意なんだもの。
ろくにやったことがないことだもの。
でも、下手なりに楽しむことは出来る。

写真に関しては、うまく撮ると損なわれるものがあるから、出来るだけうまく撮らないように気をつけながら取り組んでいる。
AはAでなくBである、というような写真を、だいたい、うまい写真と評価されやすいようなのだが、僕は、Aを撮りたいのであって、Bにしたいわけではない。
それはつまり、美人でない女性を写真の技術などで美人に仕立て上げて撮ることをよしとはしない、ということに他ならない。
これは、仕事では成立しない話で、仕事であれば、どんな人でも、きれいに、美しく、また、明るく、魅力的に出来るだけ撮影する努力を要するのだが、これは作品の話だから、僕は、自分が魅力的に見えるものだけを、撮影したいのである。
魅力的に写せた写真だけを、作品にしたいのである。

先輩カメラマンはどうやら、女性賛美の人らしく、それは、言動、および、その人が写した写真を見れば明らかだろう。
つまり、その人にとって、女性とは、美しくあるべきなのだ。
僕は、写真に関しては、女性として美しいかどうかに、それほどの興味はない。
少なくても、今の作品で、それをやりたいとは思っていない。
そうでなかったら、冷えピタをおでこに貼った女性の寝姿を撮影したりはしないよ。
冷えピタを貼った女性の寝姿がかわいいと思う人もいるかも知れないけれど、いや、実際に、かわいいものかも知れないけれど、かわいい、というよりかは、そのままを撮ったに過ぎない。
決して、セクシーだったり、萌えだったりするものではないだろう。

技術というものは大切だと思う。
しかし、技術だけでは到達出来ないものやこともある。
特に写真は、押せば撮れるのだから、技術を磨かなくても、きれいに撮れやすい。
だからこそ、上手い下手だけではなく、写っている内容が問われてしかるべきだと考えているのだが、そのように考えている人は、存外少ない。
例えば、女性であれば、見た目の美しさも重要だと思うけど、中身、性格なども重要だと僕は考えている。
そういう被写体の中身を魅力的に写せたら、いい写真だと、僕はずっと思っている。