今日は新年会だった。

今日は新年会だった。

ここ二ヶ月ぐらい、何とも言えない気持ちが続いている。

今日は、新年会のような集まりで、以前、お互いに、ポートフォリオを持ってくると約束していたので、僕は、新たに、二十枚以上プリントして、アルバムを二冊用意して、持って行ったら、相手は、ほとんど悪びれた感じもなく、持ってきていなかった。
多分、半分以上の確率で、持ってこないだろうな、と予測していたので、予測通りになった感じである。

こういう約束は、だいたい、守られたことがない。
今回は、半分ぐらいで持ってこない、残り半分の内の、25%以上は、途中やりのもので、きちんと作り込んで、人に見せれるぐらいのポートフォリオを作って持ってくる確率は、10%あるかないかではないだろうか。

隣に、新人カメラマンの女性がいて、写真を撮りたい撮りたい、と言っていて、同じセリフを三ヶ月ほど前にも言っていた。
そういう人は本当に多い。
それで、カメラだけは、優れものを購入しているケースが。
僕が、機材にほとんどこだわらないのは、そういうことの積み重ねなのかもしれない。
そもそもが、写真は、カメラだけでは、いいわるいの出来は左右されない。
デジタルだろうと、フィルムだろうと、iPhoneだろうと、写真は撮れる。

僕の右隣のおじさまが、写真に興味があって、iPhoneで撮影した夜景や、猫の写真を見せてもらった。
そういうの、僕も好きである。
別に、僕は、専門的な話だけをしたいわけではないし、啓蒙したいわけでもないので、そういう、当たり前に、写真を楽しんでいる人に、好感を抱く。

今日の飲み会は、穏やかに過ぎ去っていった。
何だか、どこか、ずっと、写真作品を撮影している意識が続いているようで、それは、遠い感じがある。
遠い視線。

それは、いわゆる離人症ではない。
離人症がどのようなものか、僕はこの身でもって、知っているから、それとは違うのがわかる。
遠いといって、寂しいわけでも、悲しいわけでも、辛いわけでもない。
言ってしまえば、自分の意識を磨き続けている感じだと言えそうか。
ずっと、心の刀を磨いて、切れ味をよくしようとしている感じなのか。

僕は、作品に関して、約束を破らないように出来るだけしてきた。
約束を守れなかったら、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
たかが作品と言ってしまえば、それまでのものなのだが。

作品というのは、商品とは違う。
そういう意味では、無為なものである。
僕がずっと取り組んでいる作品は、そういう意味では、無為であろう。
そういうのを、コツコツとやっていくのは、虚しいことかもしれないが、この世は常に虚しい。
だから、別に、僕は、そういう創作行為を、虚しいものだとは思わない。

離人症というのは、あれはどうしようもないもので、若い人の写真や詩、特に女性の作品は、離人症を表現しているのではないか、と思われてならないことが多い。
そういう、膜が貼ったような作品をよく目にするし、そういう作品が評価されている傾向にあるのではないだろうか。
それは、そういう時代が今なのだろう、と思う。
昔の女性の作品の多くは、女性という存在が排除され阻害している男社会に対するアプローチ的なものが目についたし、評価されていたと思うのだが、今はどうやらそうではないらしい。
考えてみれば、男の在り方もまた、今では女性よりも、阻害されているのかも知れず、評価する男の側からしても、共感出来るのかも知れない。

僕は、離人症は、素直でいられたなら、薄れていくのではないか、と、何となく、現在、感じている。
虚栄心をなくし、素顔の自分でいられたら、膜を貼った状態、何もかもリアルに感じられない状態は薄れていくのではないか、と。
しかし、虚栄心をなくし、建前ではなく本音で、素直な素顔を人前にさらし続けることは、本当に困難だ。
そんなものは、理屈や努力でどうにか出来るものではない。

僕は、離人症の先を写真でやっている、という意識はある。
もののあわれとは、素直な素顔だ。
僕は、そのように確信をした。
僕は、現在、写真で、もののあわれを表現し、伝えたいと思いながら、ずっと、写真に取り組んでいる。
それは、理屈ではないし、思想や言語ではない。
だから、それを他人にも求めることがいかに理不尽で、難しいことか、実感として理解するようになった。

年賀状は自分で作らない気持ちでいたのだが、何通か、元旦に届いたので、せっかくならば、と、簡単に、自分の撮影した写真に文字を組み合わせて、プリントアウトして送った。
今日の飲み会で、カメラマンの先輩が、あの年賀状よかった、こういう写真も撮れるのかと見直したよ、と言ってくれて、嬉しかった。
簡単に作ったのだが、我ながら、今まで、自分で作ってきた年賀状の中で一番の出来だと感じているから。

昨日、休みだったので、楽器を三台使って、演奏して、録音、サウンドクラウドにアップしてみた。
自分で何回も聞き直して、今までのものとはちょっと変わってきたかな、と思った。
僕は、一人で、コツコツと、音楽を続けて、写真などもやってきた。
どうして一人なのだろう、と思う時もあるのだけど、誰かとつるんでやると、ペースが乱れてしまう、という大きな理由があるのだろうな、と、今日、実感した。
どうしても、レベルや意識、取り組む姿勢に違いが生じてくる。
今日の飲み会で、新人カメラマンが二人いて、彼らとは、写真に対する取り組み、姿勢、意識がまったく異なることが感じられた。
別に、彼らのことを悪く言うつもりはない。
彼らは彼らなりにやっていると思う。

僕の隣にいた女性カメラマンに対して、あれこれと写真のアドバイスをして、撮らなきゃ上手くならない、と仰る年配カメラマンがいて、その人は、フォトコンテストに出しまくって、五年連続で優秀賞をもらったことのある人だったので、仰ることはその通りなのだけど、この女性カメラマンが実践出来るとは到底思えないので、無理のない範囲で、自分で目標を決めて、撮り続けたらいいと思いますよ、とフォローしておいた。
この長年の知り合いのベテランカメラマン兼社長は、吐きそうになったり、指が腱鞘炎になっても、写真を撮り続けてきた、と言っていて、それは立派なことだと、僕も思うけれど、それを全員が出来るとは絶対に思えない。
僕としては、吐きそうになったり、写真が嫌にならない範囲で、自分で毎月のノルマを設定して、一年半、ずっと写真を撮ってきた。
それでも、嫌だな、と感じてしまうことがあるぐらいで、そういう時でも、ノルマとペースを守るために、撮り続けてはきたのだけど、あまり無理をすると、自分自身が病的になってしまう。
そして、病的な写真になってしまうような気がしてしまう。
僕の写真はすでにして病的なものかもしれないけれど、無理をして作っている作品は、その無理が伝わってしまうから、観客である僕が、辛くなってしまう。

ただ、写真を撮れば上達する、と、僕自身は考えていない、というのもある。
練習すれば、ある程度のところまで、ソツなくやれるところまでは、だいたいの人は到達出来るだろうけど、そこから先は、やればいい、というレベルではないだろう。
写真を上手くなりたいのなら、いい作品が作りたいのなら、撮りっぱなしではなく、ポートフォリオを作り、写真を自分の部屋や、目に付く場所に飾って、自分の目で何度も吟味し、目を慣らしておく必要がある、と考えている。
そのことは、年配のカメラマンも、同様に述べていた。
あとは、ポートフォリオを人に見てもらったり、展覧会に出して展示してみたり。
それをやらないと、自分の写真がわからない。
写真にとって、わかるとは、見ることだ。
まず、見ること。
見続けることで、自分の中の意識に変化が出てくる。
あまり知らない人たちに写真を見せることでも、気付くことはきっとあるだろう。

あとは、自分でわからない、自分が撮影した写真のプリントを、わかるまで見たり、常に意識に置いて、吟味し続けることが重要だと、僕は考えている。
そういう、意味不明な写真を捨てて置くのではなく、わざわざ取り上げて、見続ける。
これは、けっこう辛いことではあるのだけど、それをやらないと、写真が発している声に鈍感になってしまうのではないだろうか。
写真というのは、一枚一枚、声を、音を、発している。
その声に耳を傾けようとしないのは、どうにも写真に対して、傲慢な態度でいる感じがする。

正直、先月撮影した自分の写真が、自分でよくわかっていない。
今までにない写真のようだし、こういう写真の現れ方をしている写真を、他に見たこともない。
今日、飲み会の前に、大きな本屋に寄って、写真集を立ち読みしてきた。
その中で、特に、森山大道さんの、カラー、という写真集を見て、元気をもらった気がした。
森山大道さんはだんだんと、写真というものから自由になって写真に取り組んでいるのが、とっても感じられるから。
それは、中平卓馬さんの影響かも知れないけど、中平卓馬さんもまた、自由に写真に取り組んでいる写真家の一人であろう。

それは、従来の写真の枠組みにとらわれないことを意味している。
だから、何がいいのか、よくわからない、わかりにくい写真も多い。
そういうところから離れたところで、取り組んでいることが、よく感じられて、ああ、これでいいのか、と思えた。
何だかよくわからないけど、写真を撮り続けていけばいいし、撮り続けていくしかないのかな、と。