Y&M

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年始、こちらに遊びに来てくれると言うことで、ゆしらくんに電話してみたら、出なくて、どうしてだろう、と思ったら、クリスマスイブだった、だから、彼は忙しくて電話に出なかったのかな、と思っていたのだが、どうやら、調子が悪いっぽいので、無理はせず、みかちゃんもそうなのだが、来れそうになかったら、気を使わず、次の機会にしてもらっても構わない。

先日、友人が、最近、どこかにしまってあったニンテンドーDSが見つかって、まったく使っていないので、くれる、か、かしてくれて、僕の手元にやってきた。
色はブラックで、DS-10にぴったりなので、さっそく、もともと持っているホワイトのニンテンドーDSから、ソフトを入れ換えて、やってみて、先ほど、二曲、録音して、サウンドクラウドにアップした。やはり、DS-10、面白い。
操作も慣れてきて、色々な音を出せるようになってきた。

昨夜、Amazonで、中古で、エレクトロプランクトンという、DSの電子楽器のソフトを注文した。
作ったのは、岩井さんで、ずっと気になっていたソフトではあるのだけど、最近、家で仕事をしている時に、坂本教授と岩井さんがコラボしたピアノライブのビデオを流していて、いいなぁ、と思ったので、このソフトを欲しい気持ちが高まり、DSが二台になったのを気に、注文してみた。
これで、DSを二台使って、演奏が出来る。
うふふ。
YouTubeで、YMOのライブ、ライディーンを聞いていて、これは多分、2007年のライブだと思われるのだが、アレンジがされていた。
トイピアノを使ったり、レインスティックのような音が使われていたりして、かわいらしい、癒しのような音楽になっていて、聞いた時は違和感があったのだけど、何度も聞いているうちに、これはこれでいいな、と感じるようになった。
こういう音は、DS-10ではなかなか作れない。
DS-10は、エグい音を作るには向いているようなのだが、かわいらしい、癒し系の音は作れないので、エレクトロプランクトンで、かわいらしい音を奏でて、DS-10と組み合わせたら、面白そうだな、と思ったのだ。
それほど高い買い物ではなかったし、僕なりの、ささやかな楽しみである。

楽器は、これで、だいたい、欲しいものを手に入れた。
あとは、鍵盤がついたシンセサイザーが欲しくて、中古屋で見てきたのだが、三万円以上して、高かった。
出来れば、KORGか、ROLANDシンセサイザーが欲しい。
これは、今のところ、憧れでとどめておこう。
ニンテンドーDSと、手持ちの楽器で、僕には十分なのだから。

PCソフトで、シンセサイザーをやる気は、今のところまったくない。
僕の持っているPCの性能の低さと、PC内で音楽を制作したい欲求がないからで、それならば、ニンテンドーDSとつなぐ手頃で音のいいスピーカー、アンプがあればいいかな、と思う。
でも、iPhoneで録音してサウンドクラウドにアップして楽しんでいるだけなので、スピーカーはいらないだろう。
USB電源のスピーカーは持っているし。
USB電源ではなく、電池式の持ち運べるスピーカーだと、手軽に使えるので便利そうなので、少しだけ、欲しいなぁ、と思っている。
でも、今すぐに手に入れたいものではない。

ゆしらくんのブログを読んで、ちょっと前に進んだかな、と感じた。
作品として、今までとは少し違う印象を受けた。
「詩のようなもの」を前回、読んだ時は、「詩のようなもの」だな、としか思えなかったのだが、今回は、血が滲むものになっている。
さて、二人の状況を考えてみて、そろそろ、今年の夏頃の僕の言動について、少し、知らせておいてもよいかな、と思うので、二人がこちらに来る前に、そのことを書いておきたい。

ゆしらくんが詩が書けない、書かないことに関して、僕はかなり出過ぎたことをゆしらくんに言ってきた。
僕の本心は、書きたくなかったら書かなければいいだろう、というものだったのだけど、ゆしらくんが詩が書けなくなっている原因は自分にあるのではないか、とみかちゃんが気にしていて、何やら不穏な空気が流れているように感じられたので、その空気を打破する為に、ゆしらくんは、自ら進んで、辛い詩作に望む必要があるように、僕には思えた。
今、僕は、詩について、もう何を言う必要も感じていない。その理由は、続けることの辛さと困難を、みかちゃんが、身に染みて、感じているからだ。
続ける、続けない、それは、本来、自分の問題であり、続けることは、時に困難で、壁にぶつかるものである。
その壁をどうするのかは、自分でどうにかするしかない。
詩を書くことも、写真を撮ることも、一人ですることで、創作において、他人はだいたい無力なものである。
つまり、自分のやる気、意志、覚悟のようなものでしかないのではないだろうか。
そのことを、他人がとやかく言ったところで、仕方がない。

みかちゃんが写真をやることで、また、ちょこっと、詩を書くことで理解できたことは、きっと、創作を続けることの難しさではないだろうか。
創作そのものの困難さというものは、当然、ある。
自分の満足の行くようには、なかなか、できないものだから。
でも、それと同じぐらい、持続させていくことは、難しい。
人は瞬間瞬間を生きている、しかし、生き続けることが難しいように。

一昨日、ある本を購入して、その日のうちに読み終えた。
この、「車谷長吉の人生相談 人生の救い」(朝日文庫)を、二人にオススメしたい。
今月、出版されたばかりなので、ちょっと大きめの本屋に行けば、置いてあるだろう。
値段は600円、文字が大きく、ページもあまりない薄い本。一日もあれば読み終えるぐらいのものである。
これは、二人の悩みに対する、アンサーになりそうな気がしている。

僕は車谷長吉さんの著書を、それなりに読んできて、最近は、買わなくなったのだが、以前から、車谷長吉さんの人生観に共感をしている。
この人のエッセイは、どこか、傲慢なところがちらほらと伺えて、それも一つの味になっていたのだが、この「人生相談」を読んで驚いたのは、今まであった、車谷長吉さんの傲慢さがなくなっていたことである。
傲慢さとは、つまるところ、自己愛である。
業である。
車谷長吉さんは、私小説によって、他人の、自分の業をあぶり出すように書いてきた作家で、十年ほど前に、精神病を患い、今では、ずいぶんとよくなってきたようだ。
多分、車谷長吉さんは、精神病になり、「嫁はん」の支えで生きてきて、身に染みることがあったのだろう。
そうとうに辛い闘病生活であったことは、文章を読めば、にじみ出ている。
精神病になり、今まで以上に、打ちのめされたであろう。
そういう人の文章である。

ゆしらくんの文章には、時々、父親への憎しみが書かれている。
僕は、もし、ゆしらくんの父親が、家族が、車谷長吉さんのような人生観、価値観を有していたら、こうまで憎しみ、苦しむ必要はなかったのではないか、と思える。
この世は、生きること、そのものが、苦行であり、救いのないものである。
また、身につまされることがあった人でなければ、他人の苦しみを理解することは難しいものである。
その覚悟をもって、人は生きるしかないのだが、多くの人は、本来の人生を生きてはいない。

虚栄、常識、金銭、そのようなものを、人生の幸福だと多くの人は、考え、生活をしている。
人並みの人生、人並みの生活を送り、そのことに満足している。
そのことを、何よりの幸福だと思い込んでいる。
持っている人は、持っていない人のことを顧みない。
この国の七割以上の人々は、そういう人たちであろう。
だから、大事なことに気付けない。

この世の中でもっとも尊いことは、愛である。
愛とは、自己犠牲の精神であり、自分よりも困っている人に手を差し伸べることである。
尊い人々も、この世にはたくさんいる。

車谷長吉さんは、挫折を経験して、ようやく本来の人生が始まる、とこの本で述べている。

ところで、クリムト展を見に行ってきたのだが、僕が行った今まで美術館の展覧会の中で、一番よくないものであった。
何せ、クリムトの絵画が数枚しかなく、そのどれも、あのクリムトの、エロスと黄金がないものばかりであった。
キューバ分離派の作家たちの作品、分離派のポスター、マッキントッシュの家具などが、展覧会の半分以上を占めていた。
それならばいっそ、キューバ分離派の代表的な作品を集めて、そのような名称で、展覧会をしてくれればよかったのだけど、それでは企画が弱いと感じたのか、どうしてもクリムトの展覧会をしたかったようだ。
残念なことである。

常設展で展示してあった、海老原喜之助さんの「ゲレンデ」という絵画にとても強く心を打たれた。
ああ、海老原喜之助さんとはこのような絵描きであったのか、と。
この一枚の絵画を見れたことが、僕にはよかった。