ここ二日間ぐらい、混乱していた。

ここ二日間ぐらい、混乱していた。

「化身」への取り組みを自己満足だと言われ、また、過去のトラウマ、嫌なこと、ひどく傷ついたことを、あれこれと思い出し、世界がぐるぐると輝き出した。
ああ、これなら写真が撮れるな、と思い、昨日、仕事の前に、カメラを持って、歯を食い縛りながら、写真を250枚ほど撮影した。
二日間、気分がひどく落ち込んで、今月、体調があまり優れないのは、心身共に、疲れていることが分かった。
ただ、仕事が忙しくて、しんどいのではなく、心が冷めている。
それを気づかせるきっかけが、日曜日の忘年会だったようだ。

今朝、もう、すべてを許そう、と思った、強く。
他人のことで、あれこれと怒ったりせず、もう、どうでもいい、と思った。
そういうのは、とても下らないことだ。
人は変わらない、僕も含めて。
変わらないものたちに、あれこれと義憤のようなものをたぎらせるのは、無駄なことだし、愚かなことだ。
人は変わらないし、世界も変わらない。
そして、自分も、なかなか変われない。
僕は、自分の愚かさを恥じたい。
他人の愚かさを責める愚かさを少しでも軽減したいと願った。

昔から、僕の写真作品、また、その取り組みに対して、ただの自己満足だと、蔑まれた言い方を他人にされることがあった。
今回の「化身」は、取り組みから一年ぐらいが経過したが、数人から、自己満足だと揶揄されたり、批判された記憶がある。
先日の忘年会でも、保険屋の人から、自己満足だと言われたわけだが、どうして、僕に、自己満足だと言われるのか、僕はどうして自己満足だと言われなければならないのか、未だにまったく理解できていない。
それで、今日は、そのことを考えていた。

事実だけを書けば、今回は、今までとは違って、写真の賞に応募する目的を有している。
来年の夏に、30枚から40枚を、銀塩プリントで焼いて、サイズは、四切ワイドで、応募する予定である。
この時点で、当然、ただの自己満足ではない。
賞に応募する、という目的を有しているのだから。
審査員の評価に、こちらから積極的に晒す、審査員に選ばれなければ、賞には選ばれないのだから、ただの自己満足だけでやれるはずはない。

賞に挑むのにあたって、当初から、いくつかのノルマを自分にかしてきた。

毎月1000枚以上を撮影する。
写真サイトでセレクトした写真を毎月アップして更新する。
サイト用にセレクトした中から、さらにプリント用にセレクトして、自宅のプリンターでA4サイズにプリントして、アルバムに収めていく。
部屋にA4サイズのプリントを額にいれて、8枚ぐらい、常時、飾る。

これらのノルマを、毎月欠かさず、こなしてきたし、来年も6月ぐらいまでこなすつもりである。

直接、関係はないと思うけど、公募の写真展で写真を三点展示してみたり、エミリー・ディキンスンの英語の詩を翻訳したり、窯変源氏物語を読んだり、現在では、電子キーボードで演奏したり、シンセサイザーで演奏したものを、録音して、サウンドクラウドに、毎日のようにアップしている。
「星の子どもたち」に取り組んでいる。
これらは、明確な目的があるわけではなく、自己満足であり、自分が必要だと思うから、また、愉快だから、やっているだけのことである。

いろいろやっていて、それぞれ、その時々で必要であって、互いに関係し、リンクしているとは思うけど、写真と、例えば、詩を書くことは、例えば、このブログの文章とは、僕の中で、自己満足かそうではないか、明確な線引きがある。

それでも、他人から自己満足だと言われてしまう。
そんな賞に応募することなんて大したことない、と思っているのか、お金にならないじゃないか、と思っているのか、写真自体がつまらないと捉えているのか、わからないけど、そういう理由から、どうやら、「化身」は自己満足だとされているようである。

別に、毎月1000枚とか2000枚撮ることは大したことじゃない。
現在、80枚、プリントしてアルバムのページを埋めて、二冊目のアルバムに取り組もうとしているけど、そんなことも大したことじゃない。
写真サイトも、他の様々な取り組みも、別に他人から評価されたいわけではない。
そんなことは、全力で、賞をとるために取り組む中での、僕なりの最低限の努力だからだ。
ノルマは、誰かに強いられたものではなく、自分で考えたもので、これ以上のノルマを自分にかしても、途中で挫折するな、とわかっているから、今の自分に無理のない範囲で、一年半、制作を続けられるように、コツコツと、地味に、やっていけるように、考えた結果である。

写真を見て、つまらない、と言われることは、傷つきはするものの、そこまで憤慨はしない。
つまらないものは仕方がない。
でも、ああ、こいつは熱心に見ていないぞ、とあからさまに感じられて、写真のアルバムをテーブルに置いて、そのアルバムの上に片肘をついて、つまらない、と言われても、こちらの胸には届かない。
せめて、カメラマンを名乗るのならば、他人の写真作品には、それなりの敬意と、態度を持って、接してもらいたいものなのだが、そういう意識のないただの職業カメラマンにそういう志しを求める方が無理があることを、僕はすでに知っている。

話は変わる。
頑張る、とか、頑張っていない、とか、お互いに頑張ろう、とか、そういう感じのことが、先日の忘年会でよく出てきたのだが、自己啓発セミナーじゃあるまいし、そういうのは、心底、ヘキヘキとする。
頑張っているかどうかなんて、やっている人間ではわからない。
頑張っていないから成果が出ていないのか、頑張っていても成果が出ないのか、そんなところに、何の価値があるというのだろう。
いくらあがいても、ダメな時はダメなものだ。
いくら頑張っても、人には、どうしても、向き不向きがある。
その人の、その時の都合というものがある。
そういうものを、一緒くたに出来るはずがない。
成功するマニュアルなんてものは、存在するのだろうか。
少なくても、よりよい写真作品を制作出来るマニュアルなんて存在しないだろう。
それぞれの作品の内容があり、それぞれの作品への取り組みがある。
それを一緒くたにしてしまうことは、作家性の否定でしかないように感じられてしまうからだ。
オリジナルの作品を作るということは、世界でオンリーワンのものを手がける、手がけたいという意思の表明に他ならない。
マニュアルというものは、画一化したものである。
誰がやっても失敗がないように考慮して作られたものだろう。
考えてみれば、誰でもわかることだと思うのだが、作品制作に、画一化したマニュアルなんて存在しない。
もしあるとすれば、それはその人だけに通用する、その人が考えたマニュアルであろう(時にそれはジンクスと呼ばれもするが)。

頑張るなんて当たり前で、歯を食い縛って、ひっしこいてやっている、生きている、そんなことは当たり前じゃないか。
ちっとも立派なことではない。
成果がでていようが、でていなかろうが、それは立派なことではない。

僕は年収が200万以下の、ダメ人間である。
そのことに異論はない。
しかし、人が熱心に取り組んでいるものに対して、敬意を払えないことは、ダメなことではないのか。
僕は、本当に熱心に取り組んでいるもの、ことに対して、その人の熱心さに相当する態度で接したい、と願う。
もし、そうでないのならば、それは、僕の中で、本当に恥ずべきことだから。
熱心に取り組んでいるかどうかは、その人の目を見れば、分かることだろう。
それは、言葉ではない。
それは、目だ。
態度だ。
それ以上に雄弁なことなどありはしないのではないだろうか。
別に、他人に対して、自分は頑張っている、努力しているアピールなんてしなくてもいいし、お互いに頑張ろうなんて言い合うものじゃない。
頑張れるかどうかは、当人の問題だ。
当人の気持ち次第だ。
そして、気持ちは、どうしようもないものだから。
やりたければやればいい、やりたくなければやらなければいい。

僕は、死にたかったら死ねばいい、と今でも、本気で思っている。
笑顔で自殺できたならば、それはそれで、その人の幸せだろう、と思っている。
でも、心からの笑顔で自殺できないのであれば、まだ、死ななくてもいいんじゃないか、とも思っている。
まだ、生きていて、少しでも幸せになれる余地があるんじゃないか、と思えるから。
幸せがお金であるのならば、僕は、この世に未練などない。
とっととおさらばしようじゃないか。
そんな、世間など、社会など、国家など、ちっともいいとは思わないから。
拝金主義なんてまっぴらゴメンだ。
そんな世の中なら、死んだ方がいい。

僕は、今日、わかったことがある。
お互いに頑張ろう、なんて自己啓発じみたことを言い合うことよりも、本当に困った時、助けよう、と心の中で、お互いに思い合える方がいい、と。
自分なりに出来る範囲で、相手の助けになろう、と思っていられる方が、僕はステキだと思う。
相手の助けになるのならば、頑張ろうじゃないか。
自分の出来る範囲で、やれることをやったらいいじゃないか。
自分は無力だけど、無力なりに出来ることもあるだろう。

驕り、傲慢、そういうのとは手を切りたい。
自分の中の、他人に対するそういう気持ちは、もういらない。
そういうのは、本当に、恥ずかしいことだ。

僕は、自分の作品は、まず、自分がいいと思えるものを手がけたいと願いながら、取り組んでいる。
もし、自分がいいと思っていないものが、評価されても、あまり嬉しくないし、本当に他人からの評価を得たいと願うならば、自分が心の底からいいと思えるものを見てもらいたいから。
まず他人の評価があって作品を作っていくのではなく、まっこう勝負で、自分がいいと思えるものをぶつけていきたい。
それがつまらなかろうとも、それは、自分のセンスがなかっただけのことだ。
自分のセンスがないことを、ごまかしたくはない。
ないなら、ないで、仕方がないと諦めよう。
自分は、一生、自分でしかない。
その自分を引き受けたいと思う。
そういう気持ちで、ずっと、「化身」に取り組んでいるのだが、それが自己満足だと思われるのならば、それはそれで、もはや構わない。
僕は、僕の決めたことを、ただ、一歩ずつやっているだけだし、やっていくしかないのだと知っているから。

だいたい、例えば、年収が1000万以上ある、とか、そういうのだって、自己満足なのである。
あったから何だというのだろう。
それで、その人の人生が豊かかどうかは、わからない。
他人の人生のことは、他人にはわからない。
ささやかな楽しみが、人生を豊かにしていく。
その、ささやかな楽しみを、他人が侮蔑することほど、浅はかで、みじめなことはないと、僕は考えている。
そして、ささやかな楽しみがない人なんて、まずいないものなのだ。
誰にだって、ささやかな楽しみが、人生にある。
僕は、「化身」を、ささやかなものばかりを写していることを自覚している、それは、そういう、僕なりの人生観があってのことではある。
それが、つまらないと他人に思われるのであれば、仕方のないことだし、自己満足だと思われるのであれば、言わせておけばいい、と、思い始めている。
実際、つまらなくて、ただの自己満足なのかも知れない。
そんなこと、やっている僕にはわからない。
そんなこと、わからなくても構わない。
そんなこと、わかりながらやっている方がおかしなことだ。

それにしても、僕は、他人の作品に対して、あまり、自己満足だと揶揄したり、批判したことはない。
逆に、自己がない、と憤慨してばかりいた頃があるぐらいだ。
まるで、中原中也みたいだが、自己のない作品は、慎み深いのではなく、自分を信じることができない亡霊にすぎないように感じられてならない。
自己のないキレイな作品よりかは、自己しかない醜い作品の方が、僕には親しいだろう。
そういうのを、世間では、自己満足だと言って、評価しないのかも知れないけど、僕はそもそも、自己満足だから評価に値しない、なんてほとんど考えないと、自分を振り返って思う。
見るべきは作品である。
そして、本当に自己満足でしかない作品なんて、僕はほとんどお目にかかったことがない。
未熟だったり、拙い作品は数多あるけど、それは、自己満足しているかどうかなど、関係がないことではないか。
ただ、それは、未熟なだけだ。拙いだけのことだ。

僕は、ゴッホの絵の中に、真の自己満足を感じることがある。
だからというべきか、ゴッホの絵はキレイではない。
醜いものであるかも知れない。
醜いからこそ、僕の魂を打つのかも知れない。
真に優れた絵画の中には、作者の、慎み深い自己満足があるのかも知れない。
そうでなければ、恥ずかしくて破り捨ててしまうのではないだろうか。

僕は、出来ることなら、慎み深い自己満足で、作品を制作したいものである。
これは、本当に困難なことなのだ。